Re:「精神現象学」を読む、その2。

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。
では、以下本文開始。


まえがき(p.010 l.18 – p.16 l.9)

  哲学において「まえがき」的なもの、他の説と比較考証して自説の要点をまとめることの不要性を最初に説いたヘーゲルですが、ここで一旦譲歩して、そのようなことも少しは有用かと判断します。
ここで「精神現象学」の根本的な展開が提示されます。

まず「真理≠実体」というふうに言い放ちます。では、「実体」とはなんでしょうか。ここでは、「固定化された存在」くらいの意味で捉えておきましょう。「固定化」が大事なポイントです。真理という言葉から連想するのは、永遠不変のすばらしいものといった感じでしょうか。この真理の永遠不変感を出すには、固定化されたものが必要な気がします。しかし、ヘーゲルはこのような真理にNOをいいます。
ヘーゲルにとって、「真理=主体」なのです。ここで「実体」と対比的に「主体」の意味を捉えるなら、「運動する存在」といった感じでしょうか。まぁ、「固定」と対比をとるなら「変動」の方がいいような気もしますが、「変動」だと、真理がコロコロ変わるみたいに捉えられそうなので、やめておきます。
では「運動する存在」とはなんなのでしょうか。

ここは実際、ヘーゲルの言葉を引用するのが良いでしょう。

 生きた実体こそ、真に主体的な、いいかえれば、真に現実的な存在だが、そういえるのは、実体が自分自身を確立すべく運動するからであり、自分の外に出ていきつつ自分のもとにとどまるからである。実体が主体であるということは、そこに純粋で単純な否定の力が働き、まさにそれゆえに、単一のものが分裂するということである。が、対立の運動はもういちど起こって、分裂したそれぞれが相手と関係なくただむかいあって立つ、という状態が否定される。こうして再建される統一、いいかえれば、外に出ていきながら自分をふりかえるという動きこそが——真理なのだ。真理はみずから生成するものであり、自分の終点を前もって目的に設定し、はじまりの地点ですでに目の前にもち、中間の展開過程を経て終点に達するとき、はじめて現実的なものとなる円環なのである。
(太字は私が勝手につけています。)

精神現象学 p011.l11–18

太字にしたことを中心に、書いていきましょう。
「生きた実体」=「真に主体的で現実的な存在」としています。これは先ほど否定した「真理=実体」説との対比です。ここでも「実体」使われていますが、これは「死んだ実体」と言えるでしょう。なぜなら固定的であるため、淀んだ水のように腐敗してしまうからなのでしょう。
つぎに主体の運動を「自分の外にでていきつつ自分のもとにとどまる」というふうに説明します。ここで大事なのは、自分で完結していることです。外部から何かが加えられることがなく、内的必然によって運動が起こるということです。「純粋で単純な否定の力」は、この自分で完結しながらも分裂を生み出すという力を表現する言葉です。
そのように自分で完結しながらも、分裂し、最終的にふたたび自分にもどること、つまり「再建される統一」・「外に出ていきながら自分をふりかえるという動き」こそが真理であるのです。
このように自分の運動によって真理が完結することを「真理がみずから生成する」と表現しています。
となると、真理は外部からなにも情報が付け足されていないということになり、はじめから目の前にある存在がすでにして真理なのだといえるはずです。探究がはじまる前は、十分に展開されていないため見えていないだけで、もうそこには真理がすでに存在しているともいえます。探究の果ては、スタート地点とは別のところではなく、スタート地点と全く同じなのです。ただ、そこで見える景色はまったく違ってくるでしょう。このような探究の道を「現実的なものとなる円環」と表しているのです。

ここはおそらくかなり重要なポイントでしょう。しばらくしても立ち返る基本的な所作になるはずです。
その後しばらく続く言葉も、この精神現象学独特の運動についての補足になっておりますが、そこへの記述は大幅にはしょってしまいます。

上記のような、自らの同一性を保ちながらも、分裂し、なおかつ自らをふりかえって統一できる存在、これを精神とよびます。精神は、ただ外部のものを取り込む認識機構ではなく、精神みずからも対象としていくのです。このような「おのれを精神として知る精神の形が学問」なのです。

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