マジで被る三度笠

ここ最近、グンと寒くなってきた。
雪だ。
約半年前に引っ越してき、その地での初雪だった。雪でかなり苦労するかと構えていたが、除雪がしっかりと行き届いており、自分で雪かきする必要がほとんどない。
これはかなりうれしい。

寒くても服を着込みすぎないように気をつけている。
理由の一つは、建物内に入ると暖房が強く、あまり着込みすぎるとそれに対応できないから。
もう一つの理由は、あまり服に頼りすぎると、体の体温調整機能が狂ってしまい、かえって体調が悪くなるような気がするから。
これは「気がする」程度の話で、科学的根拠があるかは疑わしいが、個人的にはかなり有効の説だ。そんな気がする。

今日スーパーに行くと、三度笠を被っているおじいさんがいた。
久しぶりに見た三度笠。
それもマジで被っている三度笠だ。はたしてどれくらいぶりに見ただろうか。
ここで言う「マジ」とは、奇抜なファッションやコスプレとして着用しているのではなく、この雪を乗り切るために切実に使用しているということだ。

マジで被っている三度笠を見て、なんともいえない気分になった。
ぼくは、あるものがすでに時代遅れになっているのだが、そのことを全く意に介さずにそのものをマジで使っている姿に好感を覚えるようだ。

なぜだろうか。

それを考えながら、スーパーから歩いてい帰ってきた。
考えが少しまとまってきた。

時代遅れのものを使っているということは、そのものを長年使用していることになる。そうなると、そのものの使用に、どこか熟練した所作が立ち現れてくる。その所作のなかに、その人の人生の蓄積を感じるのだ。
これが好感のひとつの理由なのだろう。
電卓があるのに、器用に弾くそろばん。ライターがあるのに、手慣れた手つきで火をつけるマッチ。パソコンがあるのに、かぶりつくように原稿用紙に書きつける万年筆。
ぼくの知らないその人の過去が、今そこにある。

もうひとつ重要なのは作為のなさだ。
三度笠を被っていたおじいさんは、なにも気を衒おうとはしていない。ただただ必要に迫られそれを使っている。三度笠を使う人は最近いないので奇異の目で見られるかもしれない、という他者評価を全くものともせず、淡々と使っている。
そこに、そのひとの純粋な独自性が象徴的に現れているようで、それが大変に好ましい。



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