外面の知識を身につけよう!

これは最近の抱負だ。

考え方的には、「読んでない本について堂々と語る方法」みたいな感じかな。

「本を読む」という行為は、なかなか問題含みだ。なぜなら、大変曖昧であり、変な道徳がこびりついているからだ。
まず曖昧について。
なにが曖昧かというと、「本を読んだ」という状態が曖昧ということだ。大抵の人は、本を読んだそばから内容を忘却していく。もちろん全てではなく、読み通す上での勘所は覚えているはずだが、それでも細部は忘れていく。ひどい時は、大事なポイントまで忘却してしまう。そんな状態で読み通したといって、それはどのような状態なのか。それは思われているほど確固たるものではないのではないか。これがまず曖昧性だ。
続いて、変な道徳について。
これは本は読み通さなければいけない、という義務感のことだ。本をつまみ読みするとき、なんだかその本を蔑ろにしているような後ろめたさを感じる。とくにその本について通読しないでおいて語るとなると、より疾しい気持ちが溢れてくるだろう。

このように曖昧で、義務感に縛られている「本を読む」という行為にどう向き合っていくのか。

著者のピエール・バイヤールは、「本を読む」ことの曖昧さを受け入れる戦略をとる。本を読んだ/読んでいないという自己判断は全く無用だと指摘するのだ。
本書では、引用された本に全て、どれほど読んだかを生真面目すぎるほどにつけている。流し読みした/読んだが忘れた/聞いたことがある/読んだことがないの4段階だ(読了したという段階がない!)。
すべてにこの印をつけることで、「本を読んだ」と断言することの無用さを、アイロニカルに示している(小説内小説にまでこの印をつけている!)。

こうなると、本につきまとう通読義務も無用になってくる。そもそも「本を読んだ」という状態が存在しえないといってもいいのだから、通読なんてある種の幻想だといってもいいのだ。だから、その本について語るという段になっても、通読する必要はまったくない。
これが「読んでない本について堂々と語る方法」の要点だ。タイトルからして何らかの小手先のハウトゥー本のようだが、そうではなく、「本を読んだ」という状態を転倒することで、「本を読んでない」状態で語っても何の問題もないことを示している。

しかし「本について語る」ときには、大事なポイントがある。
その本の客観的な位置を把握することだ。そうすれば、的外れなことはいわない。至極当たり前といえばそうだが。

この本の面白さは、概念装置にあると思う。
ピエール・バイヤールは精神分析家のため、精神分析的概念装置を導入している。
まず「本そのもの」はトラウマの位置に存在している。決して触れることのできない、抑圧されたもの。もちろん、その本について大きな違和感を持っていなければ、それはトラウマにはならない。ただ、トラウマとして存在しえる存在形式として、「本そのもの」があるのだ。
私たちは「本のイメージ」を所有している。読んだときに残った印象・あらすじなど、記憶の中に残っているものだ。これが「内なる書物」と呼ばれるものだ。
もちろんこれだけでも完結はするが、人は本について語り合う。そこで人はそれぞれの「内なる書物」のイメージを、「本そのもの」の投影しながら本について話し合う。これが「遮蔽幕としての書物」だ。
うまく本について語れる人は、「内なる書物」の投影が「上手い」ひとだ。「上手い」とは、社会的な本の関係性を考慮して投影できるということを意味する。この、社会的な本の関係性のことを「共有図書館」と呼んでいる。これは多くの人が(もしくは少数の専門家が?)、「遮蔽幕としての書物」を共有することで作り上げられる。

ここからは勝手な話になる。
この本は精神分析的な用語を使っているが、本によるトラウマの回帰の話はなされていない。しかし、こんな話もできるのではないか。

ある本が理解できない状態・納得いかない状態を、病理と類比的に捉えられるのではないか。
公共の場では、「遮蔽幕としての書物」について語ることになる。しかし、それが腑に堕ちない場合がある。「共有図書館」における語りがよくわからない、もしくは納得できない状態だ。そうなると、その個人独特の解釈が立ち現れてくるかもしれない。
この独自解釈が世間の一般的解釈と軋轢をきたすとき、その独自解釈は一種の病理として現れてくる。「本そのもの」が独自解釈として回帰してくる。
解決策としては、自身の独自解釈の社会的意味を発見し、それを一般的解釈と接続すること。そうすることでトラウマが解消される。
しかしそのようなトラウマは解消されるべきか?どこまでも独自解釈の余地を残すことの方が、健全ではないか。
個人的には、「共有図書館」の語りから排除された語りにこそ興味があるのだが。

なんだか最初の抱負と逆の内容を言ってしまっている。
勝手な話については、一旦おいておこう。

翻って、タイトルで書いた「外面の知識を身につけよう!」というスローガン。これはまぁ、「共有図書館」での語りにもっと重点を置いていこうというわけです。
性分的に「共有図書館」から排除された語りに目を向けてしまいます。勝手な話をしていても、そっちの方に気がつけば舵を切ってしまいました。
そうだからこそ、意識的に「共有図書館」に依拠した語りをしていきたいという抱負であります。



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