クズな大人が読む就活原論

宮台真司さんの「就職原論」を読んだ。

宮台さんは、僕にとって影響を持った存在だった。

大学生のとき、僕は心理学科に所属していた。
何となく将来は、心理学を活かした仕事に就けたらと思っていた。
しかし心理学を学んだ動機は、誰かを助けたいというよりも、自分の苦しみをどうにかしたいというものだった。
その道中の経験が誰かを助ける経験にもなれば、と何となく思っていた。

そんな中、宮台さんの言説に出会った。
「心理学を志す人の多くは、自分の苦しみにしか関心のないクズが多い」みたいなことだったかな。
宮台さんの過激な発言は、興味を引くためのフックであるということが後々わかったが、当時の自分にとっては図星だった。こんなクズに助けられたい人はいないよなって。

もちろんこの発言だけがきっかけではないが、僕は心理学を仕事に活かそうとすることをやめた。心理学で自分の苦しみを解消できないのではないかという思いが固まってきた。
正直、途方に暮れた。

それで宮台さんのことが嫌いになったとかではなかった。逆に、宮台さんに「感染」して、宮台さんの本はもちろん、その他社会学の本を寄せ集めて勉強した。いまでは社会学に関する興味は低減したが、それでもその頃の思いが今でも残っている。


最近宮台さんの本を読んだりしていなかったが、久しぶりに何か読みたいと思った。そこで意識の上ったのが「就職原論」だった。

別に今就活をしようとしているのではない。もうとうに碌でもない就活は終わっている。
僕の就活中、すでにこの本は出版されており、その頃すでに宮台さんに影響を受けていたので、読もうとは思っていた。思っていたのだが、読むことができなかった。
なぜかと言えば、耳が痛かったから。読まずとも、今の自分の現状に対して罵声が浴びせられることが目に見えていた。その叱咤激励で奮い立てばいいのだが、そうならずずっと落ち込んでいくことが目に見えていた。だから就活当時は読めなかった。

それから時代を経た今、もう胸の突っかかりもなく読めるような気がして読んでみることにした。

宮台さんと言えば、性風俗のフィールドワーク・ナンパ活動・過激な発言など、かなり尖ったエキセントリック活動が目につく。しかし彼の発言は至ってまともで、なおかつかなりマッチョなものだ。

「就職原論」で求められている就活生の要素は次の4つだ。
①自分の限界まで努力し、②自信過剰にならず、③社会的な手続きに熟知し、④他者の要求をしっかりと察知できる、というものだ。
これはかなりまとも、というか、こんなことができる人はこんな本を読まずとも就活に困らず、できない人は読んでも実践できないよと言うものだろう。ここまで超利他的なスーパーマンになれる人はいったいどれくらいいるのだろうか。

もう一つ、重要な要素として「感染」というキーワードを挙げている。
要はスゴい人に実際会うことで、心動かされ、「自分もこうありたい」と思うことで、成長するきっかけになると言うものだ。
宮台さんは、師匠である小室直樹さんを挙げている。授業に平気で遅れてくることがあっても、その超人的な能力のため、そんな些細なことは全く気にならず、小室さんのスゴさに感化されたという。
この「感染」と言う現象が、不可能に思える利他的スーパーマンになるエンジンとなるのだろう。

しかしそのようなマッチョイズムだけでは疲れてしまう。そこで大事になるのが、「ホームベース」をつくるということだ。心の拠り所になる共同体をつくるということだ。
個人主義が蔓延すると、そのような共同体を維持するコストが煩わしくなるが、結局は首をしめることになる。自分だけでは立ち上がれなくなる。そうならないためにも、共同体が維持できるようにコミットメントする必要がある。


もっと若い頃は、社会に適応できると信じてきた。
別に変わったことはしたくはないので、社会にうまく溶け込んで生きていけたらいいと思っていた。
しかしその「うまく」溶け込むということが、かなり難しかった。精妙なバランス感覚がない。さらに「うまく」やることへの嫌悪・罪悪感もあった。これはルサンチマンかもしれないが。

「就活原論」での主張は、アホみたいな要約だが、「うまく」やっていくということなのだ。
杓子定規に方法論を当てはめるでもなく、自己分析をして自分にだけ目を向けるナルシシズムに陥るのでもなく、その都度「うまく」状況にあわせて最善の努力をせよ、ということだ。

自分にはどうやら、「うまく」やる器量がないようだ。
願わくば、もう少し「うまく」生きる力を。

と思う反面、その不能力のため、無為や無内包には敏感に反応できるような気もする。
この不能力でもって「うまく」生きれたら。





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