Re:ゼロから始める精神現象学

こんなタイトルにしたが、まったくリゼロとは関係ないです。最初にそれだけ断言しておきます。ただ、思いついてたから書いただけです。

以前、「精神現象学」を読みながら読書記録をつけていました。数ページごとにちまちまと内容をまとめており、我ながら順調に進んでいましたが、途中で座礁してしまいました。
いちど「精神現象学」を離れて別の本を読んだことがきっかけで、「精神現象学」の波長にうまく合わせられなくなってしまいました。そして結局積読状態となっていたのでした。
基本気にせずにいたのですが、心の片隅にずっと「精神現象学」がありました。

先日、大きな本屋に出向く機会があり、長谷川宏訳の「精神現象学」に出会いました。ぼくが読んでいたのは熊野純彦訳だったのですが、心機一転、訳を変えることで「精神現象学」に再入門しようと考えたのです。

というわけで、過去の記憶をもって「精神現象学」の世界にタイムリープしました。…強引ですかね。

長谷川宏訳で今読み進めているのですが、何だかスラスラと読めています。以前は、「まえがき」の途中でなんだか迷子になったのですが、「まえがき」も「はじめに」もいい感じに読めている。かなり腑に落ちている。

ヘーゲルは結局同じことをずっと主張しているらしい。
固定化された真偽に拘っていたら、真の学問とは言えない。自身の外に出ていきながらも、最終的に自身に還っていく概念の運動こそが学問であり、それが弁証法であるということだ。

確かに読んだ過去の記憶を遡っても、執拗にこの運動の記述に終始している。これだから信頼できるではないか!

読書ノートを取るとなると、それが負担になり続けるのが難しくなるかもしれませんが、ふたたび「精神現象学」の読書記録を取っていこうと思います。以前は、細かい論脈もすべて拾っていこうという気概でしたが、もうすこしルーズな気持ちで取り組んでいく予定です。
なるべく完走することを目的に進めていきます。

という、自分という他者に向けての説明=宣言でした。


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