反解釈、芸術の「良さ」

ソンタグの『反解釈』を読む。

芸術の「良さ」とはなんだろうか?

なんだが「ゲージュツ」というと、気取った鼻につくものと感じる人もいるだろう。そうなるのは、その作品と呼ばれているものに心動かされず、なおかつ、世間での評価も高いからだろう。
逆に言えば、その芸術に心動かされるとき、その芸術が「良い」と言えるだろう。

では、芸術に心動かされるとはどういうことだろうか?

こういう説明はどうだろうか。その「ゲージュツ」と呼ばれているものは一見理解不能なものだ。そのよくわからない「ゲージュツ」に対して、ある批評家なりその良さを理解できる人、はたまたその作者が、その「ゲージュツ」の意味を解説する。「一見よくわからないものは実は〜をあらわあしており、・・・というメッセージを伝えている」という具合に。
そうすることでよくわからなかった「ゲージュツ」と呼ばれていたものが理解可能になり、カタルシスを感じる。こうして、芸術として享受することができる。

このような立場は、芸術は形式と内容を持ち、その内容こそが芸術の「良さ」であると考えるものだ。

しかしこのような立場を貫徹しようとすると、芸術の形式は単なる邪魔者になってしまう。内容が伝えたいのなら、それをそのまま言葉に表現すればいい。もしそのような批評によって伝えたいメッセージを表現することが可能なら、芸術という迂回路を通らずに、直接メッセージを言えばいいだろう。

次のような発言する芸術家を見たことがあるだろう。インタヴューを受け、「この作品のメッセージはなんですか」という問いを投げかけられ、辟易としながら「そんな簡単に言葉で言えるなら作品にしないですよ」と答える芸術家を。
たぶんそのように質問する人は、その芸術の「良さ」がわからないのだろう。わからないからその意味を問う。しかし芸術家はその芸術の「良さ」をただただ作品を通して伝えたい。しかし伝わらない。

ここに、芸術におけるスノビズムが現れるのだろう。私はこの難解な芸術の「良さ」がわかるというあの知的優勢の誇示が。

このスノビズムは「良さ」を意味に求めてしまう。なぜなら、その「良さ」を体験している、というのでは説得力がないからだ。「なぜか知らないがその良さを私は体験している」と言ったって、周りの人はそのことがわからない。そこで、解釈の次元が開かれる。「この意味不明なものは、実は〜という意味なんです、だからいいんです」と言うことで、その人は「良さ」を理解できている人だ、ということになる。

こうなると、芸術にまったく心動かされずに、芸術の「良さ」がわかるということが起きてしまう。解釈することでカタルシスを得ることもあるはあるだろう。しかし、単なる言葉上のことであり、芸術に心動かされているとは言い難いのではないか。
芸術とはなにか魔術的なもののはずだ。なぜか知らないが、感動してしまうという体験こそが芸術の本質ではないか。

芸術はどこまでも体験的な良さを必要とする。言葉による解釈を跳ねのける良さこそが必要なのだ。

芸術作品をよく見ること。内容なんて「中身のない」ものには目もくれないで、ただその作品そのものをみること。そして、その作品の美を感受すること。


割と自由にパラフレーズして要約めいたことを書いた。

もっと圧縮するなら、芸術の良さを考える際、様式vs内容という二項対立は間違いであり、芸術の端的な良さを享受する体験こそ重要だ、と言ったところだろうか。

体験が重要だと言うとき、どうしても芸術の価値というものは相対的になってしまう。それを享受する人によって感じ方が違うのだから。
いや、相対的とさえ言えないほど、体験は違うと言えるのではないか。相対は比較を通して違いを見つけるが、比較さえも絶する違いもあるのではないか。

私たちは、芸術作品自体を共有することはできる。それが視覚的なのか聴覚的なのかわからないが、それは物理的実態だ。しかし、体験は共有できない。
 そこで言葉を使えば体験を共有できる。感動的だと言う感想は共有することができる。違った感想を述べることで芸術の体験を無限に相対化することも可能になるだろう。
しかし、相対化できない体験もある。言葉では何とも言い表されないものが。語れない部分に体験の共有不可能生が残存し、その孤立こそ真の芸術的体験がある、そうも言えるのではないか。



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