Re:「精神現象学」を読む、その5。

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録。
以下本文開始。


まえがき(p.30 l.21 -  p48)

  しつこく、真の学問観をわたしたちに教えてくれます。ここでは簡略化した図式で思い出すことにしましょう。
 単純な実体→否定による分裂→再統一による新たな単一な実体
このような概念の運動が学問・哲学なのだ、ということです。
 今回の記事で、まえがきの最後までまとめていきます。個人的に、かなり内容に重複があるように感じるので、重複と感じる部分は思いっきり端折っていきます。

 最初に取り上げるのは、存在=思考である、という記述です。正直、ここの記述は私の中で完全に消化できていないのですが、分かる範囲で噛み砕いていくことにします。
 まず、実体はそれ自体が主体であることが確認されます。これは、実体が固定的なものではなく、運動するものだということです。これは概念的な運動の話と同じですね。実体が具体的にどのように運動するのかは今後見ていくことになるので、まだイメージはしにくいでしょう。ただ概略的にみていくなら、初めは具体的な性質を持っていた実体が内的な必然性に従って運動することで、抽象的な存在へと変化していきます。この顛末の詳細は、本編にゆずります。ここで大事なのは、実体が運動することで抽象物になり、抽象物を捉えるのは結局思考であるということをヘーゲルは言いたいのだと思います。このことが思考=存在ということでしょう。
 自分なりにまとめましたが、今ひとつのような気もします。良い解釈が浮かべば、書き換えておきます。

 続いて、主語と述語の関係について。
 哲学は文によって表現されるため、主語と述語はつきものです。「SはPです」という形で表現されます。例えば、「神は無です」という感じに。しかし、これは普通に捉えるのでは哲学にはなりません。「神」という大きな不動な主語に対して、「無」などの述語を当てはめるという方法では概念の運動は起こりません。これは、意識がすべてを俯瞰し、「神」という主語と「無」という述語を接合するという考え方です。
 「神」が「無」ということは、「神」というものが「無」というものに投げ込まれることになります。つまりは、述語の「無」こそを、今度は主語として調べていく必要があります。こうなると、意識は「神」と「無」を俯瞰するだけではダメで、その運動のな中に身を投じる必要があるのです。

 後半はかなり省略したので、読書記録たり得ているのか疑問ではありますが、「まえがき」のまとめはこれくらいにしていきます。次回は「はじめに」の内容に入っていきます。


 後半はかなり駆け足で「まえがき」の内容をさらっていきました。
 なぜ駆け足になったのかというと、全体のつながりがうまく捉えられなかったからです。
 あまり偉そうなことは言えませんが、「まえがき」はお世辞にも内容がまとまっているとは言えないのではないでしょうか。読んでいると、今なんの話をしているのかと迷子になることがよくありました。個別の段落の主張は納得いきますし、良いことが書いてあると思いますが、そのつながりを見出すのが困難な部分が多くありました。
 人のせいにしたような物言いとなりましたが、自分の成熟に従って、内容も捉えられるようになることを祈って、細かい部分には目を瞑って進んでいくことにします。
 今回はここまでで、次回から「はじめに」に突入していきます。

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