Re:「精神現象学」を読む、その1。

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。
今回の目標は、とにかく完走することにあります。
というわけで、すべての論脈を拾っていこうという方針ではなく、議論の骨格だけでもしっかりと掴んでいき、内容をできるだけ掴んでいくという方針をとります。
ですので、自分勝手に用語をパラフレーズ・導入したり、ある議論はまるっきり省略したり、はたまた議論の順番を入れ替えたりすることで、少し強引にでも理解するという方向に重心を置いていきます。
では、以下本文開始。


まえがき(p001~p010.l17)

哲学において「まえがき」なるものは不要だ、といきなり「まえがき」で語り始めていきます。

なぜなのでしょうか。

まず、「まえがき」とはどのようなものなのか考えていきましょう。
「自身の主張したい説を他の説との関係性において位置付け、簡便に内容と結論を書いたもの」という説明はいかがでしょうか。
細かい要望は色々あるかもしれませんが、おおまかに「まえがき」とはこのようなものという同意は得られるのではないでしょうか。

このような「まえがき」がまったく不要だとはいいません。哲学以外の学問においては、とても有用といってもいいでしょう。
しかしこと哲学においては、そのような「まえがき」では哲学の「哲学性」を毀損してしまうというのです。

なぜ哲学の「哲学性」が毀損されるのでしょうか。
この問いの答えは、「まえがき」に潜む真理観に潜んでいるのです。
それがどのような真理観かというと、「複数の説が存在し、そのどれか一つが真の説であり、その他の説は全て誤りで、まったくの不要なものである」という真理観です。

これに対して哲学はどのような真理観をもっているのでしょうか。
要約してしまえば、ヘーゲルは大体次のようなことを言っています。
「真理の真の形態=学問的体系=概念的存在」
ここではまだその内容の詳述はされていません。なぜなら、その詳述こそ、本書の取り組みであるためです。ですから、「要約してしまえば」という先の発言は、まったくもってナンセンスというわけです。「要約」なんて跳ね除けてしまうのが、哲学の「哲学性」なのですから。
ここでは、これから語られるであろう内容のぼんやりとした輪郭を拝む、と言った具合で我慢するしかありません。焦りは禁物です。

ヘーゲルは、真の学問とは言えないものとして、二つの学問観をを提示します。
一つは、カタログ的学問観、もしくは博物的学問観といえはよいでしょうか。これは、さまざまな事実をかき集め、分類・整理することで真理を得ようとする学問観です。
もう一つは、宗教的学問観です。なんでか奇妙な取り合わせですが、宗教的恍惚によってこそ真理を得ることができるという学問観です。
この二つと一線を画する真の学問観を哲学は持っているとするのです。

ここで一つ脱線を。
このやり口は、まさに先刻ヘーゲル自身が批判したものと言えるのではないでしょうか。複数の説と比較することで、自身の説の立ち位置を明らかにしているので。
しかし、ここは「まえがき」の場であるため、そのような記述になることは致し方ありません。
このような比較において哲学の内容がわかるなんてことはない、そのことだけ肝に銘じておく必要があります。
では内容にもどっていきましょう。

哲学の学問観とはいかなるものでしょうか。
カタログ的学問では、事実をたくさん列挙することで、内容を充実させていきました。
対して哲学は、みずからが運動して多様な形態をつくりあげることで、内容を充実させていくのです。


今回は以上。





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