マイナス内包というアクロバシー 〜マイナス内包は存在可能か?〜

 この記事では、入不二基義「現実性の問題」の「第7章 無内包・脱内包・マイナス内容」での議論を俎上にして、マイナス内包の存在可能性について考察していく。


 まず、マイナス内包とはどんなものなのか確認しておこう。

 端的に言ってしまえば、「概念からも解き放たれたこの感じ」がマイナス内包である。これだけでは説明になっていないので、もう少し詳述していく。

 ここでは「痛み」を具体例として考えていく。
 私たちはこの世に生を受けた瞬間、何ひとつも言葉を発することができない。それがある瞬間から、言葉を発することができる。「痛い」ということもできるようになる。
 では、どういう状態が「痛い」といえる状態なのだろうか。
 「痛み」の理解には、次の三項が必要になる。刺激・主体の心・主体の身体的反応。この三項がどう関係するかをみていく。誰かが、机に思いっきり頭をぶつけたとする(刺激)。頭をぶつけた人に内的な変化が起こる(主体の心)。そしてその人は叫び声を上げてぶつけた部分を手で押さえる(主体の身体的反応)。このときの主体の心の変化のことを「痛み」とよぶことができる。「痛み」は心の中だけの出来事のようだが、外部の刺激や身体というものも同時に必要なのだ。
 このように因果関係に埋め込まれた主体の内的変化のことを、第一次内容とよぶ。心の中に起こること全般と考えればよいだろう。
 第一次内包は心の中の出来事ではあるが、外的環境に依存して存在するため、公共的な存在だといえる。だから、他者が感じる「痛み」も私が感じる「痛み」も並列に存在する。
 しかし、心の中に起こる何かを語るとき、それが他者のものと同等であると思いながらも、どうしても人のそれとは違うと感じることはないだろうか。そのような実感に即した概念が第0次内容だ。
 第0次内包は、因果関係から独立した感覚のことをいう。第0次内包はある種素朴の実感に根ざした概念であるが、それの概念を突き詰めると、次のような不可思議な状況でもその存在を否定することができない。
 たとえば、音楽を聴いているときに誰かが急に「痛い」といったとする。普通は、音が大きいとか、急に体調が悪くなったとか、はたまた感動して心が痛いのかと考える。しかしそんなことではない、と相手がいったらどうだろうか。タンスの先に小指をぶつけた「痛み」が湧き上がってくるといわれたらどうだろうか。いくらその状況が不自然であれ、本人がそう感じているならそれを受け入れるしかない。第0次内包は、このような強い独立性を持っている。

 第0次内包は日常生活の水準でいえば、かなり現実離れした想定となっているが、これをさらに現実から遊離させることができる。それがマイナス内包だ。マイナス内包の存在の特殊性を述べるには、第0次内包と第一次内包の関係性を考える必要があるため、もう少し議論を重ねていく。

 第0次内包は、外的文脈から独立したかのように見える。しかし、ことはそう単純ではない。なぜなら、第0次内包も「痛み」という第一次内包の概念を流用せざるをえないからだ。第0次内包の独立性を言い立てるには、まず第一次内包の概念が成立していないといけない。第0次内包は、第一次内包から独立を果たしながらも、意味論的には、第一次内包の圏域から脱却することができていないのだ。
  しかし、こうもいえそうではないか。私たちが「痛み」という言葉を習得する前、そんな状態でも「痛み」というクオリアに該当する何かが存在していたといえないだろうか。意味論的な地平が成立する以前に、存在論的に何かがあったとえいないだろうか。この意味論的な地平が成立する前の存在論的な何かを、マイナス内包とよぶ。マイナス内包は、いまだ意味的な地平が開けていない状態なので、そこにあるのは概念といえない。だから第一次内包から独立した存在といえる。


 これにてマイナス内包の説明は終了した。ここからが本題だ。これまでマイナス内包について議論してきたが、マイナス内包は果たして存在しえるのだろうか。これがこの記事での主題だ。

 「現実性の問題」のなかでもそのことについて言及している。マイナス内包は、「概念からも解き放たれたこの感じ」であった。いくらマイナス内包が概念から独立してるとはいえ、「この感じ」という最低限のカテゴリーがあるのだから、それは完全に概念から独立した存在とはいえないのではないかとい問題だ。

 この問題に対するる解答は、「現実性の問題」で考察されている時間の根本的矛盾と大いに関係する。このことについて詳述すると、かなり文字数を食ってしまうので、簡単に触れながら説明していく。

 時間というものは、数直線として理解されるのが普通だろう。連続した直線上を動く現在として、時間を把握するはずだ。しかし、そのような時間理解をはみ出したものこそが、時間の本質なのだ。さらに、本質は二つあり、その二つが矛盾してしまうのだ。
 一つの本質は、「無関係性」だ。時間は「連続したもの」として理解されるだろう。しかし時間を一方向に純化していくと、この連続性は壊れてしまう。過去・未来は共に現在ではない時点のことだ。現在から、過去は想起できるし、未来は予期できる。だが、想起した過去は「現在から見た過去」にすぎないし、予期した未来は「現在から見た未来」にすぎない。どこまでも現在の中に閉じ込められている。では、現在に閉じ込められない過去・未来も考えられないか。というか、過去・未来の性質を純化させていくなら、そうならざるをえないのではないか。となると、過去・未来は完全に現在から断絶した点になってしまう。時間の連続性が消え、点から点への非連続的なジャンプへとなり変わってしまう。これが時間の「無関係性」だ。
 2つの本質は「ベタ性」だ。これは先ほどとは別方向に時間を純化させることで出てくる本質だ。ある時点は、未来にも「なる」し、現在にも「なる」、過去にも「なる」。過去・現在・未来という時間区分は相対的には区分されうるが、この「なる」という性質は、どの時点をとっても等しく存在している。どの時点も過去に現在にも未来にも「なり」うる。その考えを推し進めると(ここは精密な議論なく乱暴に結論づけるが)、どの時点も同じに、つまり「ベタ」になってしまう。これが時間の「ベタ性」だ。

 これで準備ができたので、本来の議論であるマイナス内包の存在について戻る。マイナス内包は概念から脱しているはずなのに、「この感じ」という最低限の概念からは脱却していないのではというが、さきほどの問題があった。このような矛盾が発生するのは、時間の本質が矛盾しているからだといえる。
 マイナス内包は、これから概念によって成形されるであろう原型だ。これは先ほどの時間の本質で言えば、無関係の過去といえる。それほど断絶しているからこそ、第一次内包からも断絶したものだといえる。
 またマイナス内包は、「この感じ」というものによってある種概念かされているとされていた。しかしこれは、時間の「ベタ性」に由来するものだといえる。
 マイナス内包は無関係な過去に属しているのなら、同時に、ベタな時間にも属している。その2つがともに時間の本質なのだから。「無関係性」に目を向けると、「あの感じ」という概念が不純物のようにみえる。しかし「あの感じ」は時間の「ベタ性」に由来するのだ。マイナス内包は時間的存在であるだろうから、そのような矛盾を含むのはなんらおかしいことではないというわけだ。

 このようにして、マイナス内包という危うい存在が存在することができるのだという。しかし、どうなのだろうか。例えば、永井均はマイナス内包なる存在を認めない。私が不勉強なため、それをいかなる理由で否定しているかを知らないが、ここからは私が勝手に補って考える。
 マイナス内包はまだ概念化されていないものであった。となると、私たちはそのマイナス内包である「この感じ」を明示できないことにならないか。概念化されてないということは、区分がされていないため、すべてが同じになり、指し示すことができないということだ。真っ暗闇でいくら指を差したとしても、何も指し示せないのと同様だ。
 そこで仮に、概念化されていないこの感じと明示できたとしよう。となると、最低限それを指し示したその人にとってはそれが識別できており、最低限の概念化が可能となっている。つまり、第0次内包になってしまっているということだ。
 つまりマイナス内包はどこまでいっても仮想的なものに過ぎず、それが一度意識されてしまったなら、第0次内包としてしか捉えらることしかできないということだ。
 これは無意識の構造にいている。無意識はどこまでいっても潜在的な存在であり、一度表に出てきてしまったら、意識となってしまうというのと類比的だ。

 これ結局、意味論と存在論の対立なのだろう。
 意味論的にいえば、言葉で有意味に指し示せないものは存在しているとはいえない。指し示すとは、無数の差異のあるものからある一つのものを選び出す行為だ。しかし、マイナス内包は有意味には指し示せない。なぜならすべてが「ベタ」で、差異が存在しないのだから。指し示せたのなら、それはもうマイナス内包の「ベタ性」が喪失してしまっており、第0次内包になり変わっているといえるだろう。
 たいして存在論的にいえばどうなるだろうか。言葉で指し示めることができなくとも、端的に存在することができるといえる。なぜなら、概念化されるものがあるのなら、それになる前の概念の元がないとおかしいだから。そうでないと、何かが無から急に生成したということになる。私たちには赤ん坊だった時があり、そのときにはまだあらゆるものを言葉で指し示す能力がない。それでも、将来言葉で指し示すことができるであろう何かが存在すると考えることはできる。というか、そのようなマイナス内包的なものが存在しないと、無からの発生を認めることになってしまう。


 この二つのどちらが正しいのか判断するような審級は存在するのだろうか。







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