訂正可能性の哲学、一般意志のねじれ、類型化されない私

東浩紀「訂正可能性の哲学」の読書記録。


民主主義に人間は必要なのでしょうか?

これが「訂正可能性の哲学」のメインテーマです。

この問いに対して、「民主主義に人間が不要だ」という応答が、現代の知識人の主要な意見でしょう。

人間に政治的判断を求めると、間違いを起こししまいます。
知識が不足したり、個人的利害関係に囚われたり、アジテートされたりして、判断が歪んでしまいます。

だから、多くのものをデータ化してそれをもとにAIが判断するのがよい、というわけです。思想の細かい相違はあれど、これが「民主主義に人間が不要だ」という主張の内容でしょう。

たしかに、その通りだと思います。しかし、東はこれに対して抵抗します。様々な引用をもとにその理路を示しますが、主要であるルソーを軸に外観していきます。

まず、AIによる民主主義はテクノロジーが可能にした新しいもののように感じますが、そのアイデアの根幹はルソーに由来すると指摘します。これは東の「一般意志2.0」から地続きの考えです。

一般意志とはなんでしょうか?
その意味を明瞭にするには、特殊意志と全体意志という概念と比較するのが良いでしょう。
特殊意志は、個人の利益を追求したいという意志のことです。これは特に問題ないでしょう。
紛らわしいのが全体意志と一般意志です。この二つは何がちがうのでしょうか?
全体意志は、特殊意志の総和のことです。特殊意志とは、個人の利益追求のことでしたから、全員が自分の利益を追求したときの均衡点のようなものが全体意志と言っていいでしょう。
対して一般意志は、個人の利益を顧みず、公共の利益を求める意志のことです。
全体意志も一般意志も、個人の意志からは脱却していますが、全体意思は単なる妥協点にすぎません。ルソーは公共性を求める一般意志こそ目指すべきだと主張します。

このような分類を見ると、現在の民主主義は全体意志の実現にとどまっていると言えるでしょう。いくら投票権を全員に与えても、その投票する全員の動機が公共の利益であるとは考えにくいからです。

では、ルソーはどのようにして一般意志が実現すると考えたのでしょうか?
ルソー自身、これに対して具体的な答えを出していません。ルソーの一般意志は、理想的概念であったと言えるでしょう。

この単なる理想であった一般意志を具体的に実現するのが、AIによる民主主義というわけです。
人々を細かにデータ化し、それを全て鑑みて公共のためになる決断を下していきます。そうすれば、たんなる個人の利益追求の総和以上の何かになるのです。

一見この考えに欠点らしい欠点は見当たらないような気がします。しかし、東はその欠点を見抜きます。

それは「全体主義へとつながる」というものです。

一般意志と特殊意思が対立する場合もあると思いますが、その場合はどうなるでしょうか。その場合、一般意志こそが正しいものである、というのがルソーの主張です。
極端な例ですが、ある個人の死が公共のためであると一般意志が考えた場合、死を宣告された人間は反対するでしょう。しかしそれは、公共的に考ええられていないだけなのです。死ぬ本人であろうと、真に公共的に考えるのであれば、自分の死をも受け入れるという結論に至るはずとルソーは考えます。
つまり、個人の意思が一般意志によって阻害される可能性があるのです。

AIによる民主主義にもそのような危険性を孕んでいます。
もちろん上のような極端な例はありえないかもしれません。しかし、AIによりつくりだされた一般意志が、ある人々を不幸にする場合、どう考えればよいでしょうか?
その不幸を感じている人々はAIの決定に反対するでしょう。ですが、それはAIによる一般意志の決断のため、公共的な正しいものになります。となれば、その一定数の不幸を無視することになるのではないでしょうか。そのようなマイノリティの意見は排除されます。
AIによる決断が絶対となってしまうのです。

では、ルソーの一般意志という概念自体が欠陥品だったのでしょうか?

そうではありません。ルソーの一般意志はツルッとしたものではなく、どこかねじれを含んだ概念なのです。
ではそのねじれをみていきましょう。

ルソーは社会が形成される前の状態、自然状態を最善のものと考えました。人は孤立している状態ですでに充足していたとするのです。となると、一般意志なんて不要でしょう。社会なんてものは投げ捨てて、自然に帰れ。こうすればスッキリとします。
しかしルソーはそう考えません。

自然状態がベストなら、その状態から社会契約をする必要はありません。ではなぜ社会が存在するのでしょうか。すでに存在しているから、としか言えないでしょう。過去は変えられません。
しかし、過去を遡行的に変えることはできます。社会が存在する、この過去・事実そのものは変えられません。そして、その社会のはじまりはわかりません。わかりませんが、そのはじまりに社会契約があったと仮定し、あたかも一般意志の実現が社会の目的であるとしたのです。そのかつてあったと仮定された目的の実現のために頑張るというのが、一般意志なのです。
「もともとそうであったということにいまなった」というねじれがあります。

理想とその挫折、そこからの理想の再建。これこそが一般意志なのです。

AIによる民主主義は、そのようなねじれがありません。それはわかりやすくて良いもののように感じます。しかしそれはあまりにも愚直にゴールに向かうあまり、個人を蔑ろにし、公共性ばかりに奉仕することを要求します。それが全体主義につながってしまうのです。
ねじれを含まない分、正しさが固定化し、柔軟性を欠いてしまします。

いや、AIは各個人の最大の幸せを実現してくれるのであれば良いではないか。このような反論もあるでしょう。

しかし、AIの実現する幸福は、私の幸福足り得るのか、その問題もあります。

AIは個人をデータの束として捉えます。年齢、性別、出身地、職業、検索履歴、購買履歴など、さまざまなデータの集合として個人を捉え、そのような要素を持つ個人にとっての幸福を、AIは考えてくれます。

しかし、いくらそのような要素を列挙したとて、この私に到達するのでしょうか。似たような属性の人が望むことを、果たして私も望むと言えるのでしょうか。この私性、これこそがAIが救い取れないものなのです。

AIによる類型化からはみ出す私、その私が「訂正」することにより一般意志は形を変えながら持続していくのです。


以上が概略です。

今回はここまで。




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