「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」を読んで part1

  永井均さんの著書「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」を読んだことをまとめたり、そこから派生して考えたことを書いてみたいと思います。この本を読んだのは初めてではないのですが、改めて読み直して新たに気づきがあればと思い、書き記しています。

 「はじめに」に書かれていることを軽くまとめることから始めていきます。ここでは永井さんのほかの著書でも言っていることなのですが、自分の問題はいつも取り違えられて解釈されてしまっているということを書いています。その引き合いに中島義道さんが永井さんのことについて言及している部分を取り上げて、いかに自分の問題が変質してしまっているということを説明しています。そして、こうした誤解は専門の哲学者に多く、理由は自身のすでに持っている哲学的知識に基づいて解釈をしていしまうからだと指摘します。そこで読者には一文一文正確に読んで、自分の頭で実際に問題を考えるように促してから本論に入っていきます。

 というわけで、僕も僕なりに永井さんが提起している問題を感じながら考えてみたいと思っています。

 そもそも永井さんの問題って何なのでしょうか?ものすごく誤解があるかもしれませんが平たく言ってしまえば、「私や今が存在していることの端的な驚き」から出発する問題となるのではないでしょうか。まぁ、永井さんはなん十年もこの問題を提起し続けて常に誤解され続けているとおっしゃっているから、もちろん僕も誤解しているかもしれないしれませんが。

 ここでは、なんで私や今の存在だけが驚きの対象であるのか考えてみたいと思います。対象が宇宙とか地球とかいろんな生物とかそんなものでも、私や今と同等に驚きうるのではないでしょうか。例えば、「地球ってものすごいバランスで成り立っていて、奇跡的にいろんな生物がすめるような環境が整っているよね」ということも驚くべき存在の問題にはなると思います。しかし、永井さんが問題にしている今や私は上のような存在の驚きとは別の構造があり、そこが驚きの原因になっています。

 ここでは地球の存在の驚きの話を続けていき、どういう種類の驚きなのかをもっと鮮明にしていこうと思います。地球は奇跡的に生物が住めるような絶妙なバランスを保っている奇跡があると思いますが、僕たちはどのようにしてその奇跡を調べればよいのでしょうか。それは諸科学がいろいろと実験や観察やり理論的考察をしていき、それがどのような法則で成り立っているのかを調べるという手順で行われてきたでしょう。そのように法則を知れると、それを利用することはできるでしょう。しかし、それがなぜ存在しているかという風なことは全く解決はしません。科学はどうなっているか(how)に関しては説明してくれるが、なぜあるのか(why)には答えてくれません。たとえビックバンまで遡ったとしても、ビックバンのもとである宇宙の種のようなものがどんなものかはある程度言えても、なぜそれが存在しているのかは決して言えないのです。ここはもう科学の範囲ではありません。しかしこれは科学が欠陥があるというわけでは全くありません。科学とはどうなっているかを調べるためのものであるからです。なぜ存在するかを調べても現実に益することは皆無でしょう。ではなぜに答えるためにはどうすればいいでしょうか。多分神の存在に頼るしかないでしょう。もしくはそんな答えはないのだと言い切ってしまうか。だからこの存在の疑問は神秘的な問題であり、奇跡的なものであると言えます。

 端的に存在していることへの驚き。今は地球について驚きを語ってきましたが、これは別に地球ではなくてもすべての存在するものに当てはまる驚きでしょう。では、以上のような驚きと永井さんの驚きとは何がちがうのでしょうか。

 ここでは私の驚きについて書いていきたいともいます。まずはこう言えそうではないでしょうか。私の驚きも上で挙げたような万物の存在に対する驚きの仲間なのではないかと。もちろん、私も肉体的な存在であるから、万物の存在に対する驚きの例外ではないです。ただそれでは掬い取れない驚きがあると多くの人が感じるのではないでしょうか。つまり魂や精神といったもので表現される物体的ではない存在に対する驚き。それがあるから私たちはなぜ生きるのかを考えるのであり、それが人間の存在の神秘性を担保するのではないかと。

 しかしこのような捉え方では取りこぼされてしまうものがあります。本のタイトルの言葉を借りているなら、私の独在論的存在構造を無視してしまっているということです。上で実存主義の説明をしたとき私と私たちを当たり前のように並列して書きました。日常生活では並列に扱っているので、そのことを指摘されるまではその当たり前にも気づかない人もいるのではないでしょうか。しかし、ここが一番の問題であるのです。

 哲学には独我論という問題があります。すべての認識は人間の脳によって処理されたものであるため、世界といった実在的なものは存在せず、私の認識しかこの世にない、という考え方です。これはとてもグロテスクな世界像と感じる人もいると思います。日常生活ではみんな一つの世界に属しているかのように生活しているのに、実際はそうはなっていないと主張しているのですから。

 ただ独我論はある意味端的な出発点でしかない、という考えもあり、というか、そう考えざるを得ないと思います。ここでどうしても区別しなければいけないのは、私とほかの私と呼ばれる人たちです。もっと具体的に言うとこれを書いている私とほかの人たちです。「別にそんなに力説しなくても、私と他人は外見も性格もそれまでの記憶も全然違う存在であるから当たり前じゃん」という指摘もありますが、そういう種類の違いではないのです。いくら他人との違いを列挙したとしても掬い取れない違い、それを区別したいのです。これを言うためには違いに目を向けるのでなく、同じ部分に目を向けるほうがより問題がはっきりするはずです。私とほかの人は基本的に脳の構造は同じはずであり、意識が生成される仕組みも同じはずです。そこには違いはないはずです。しかし、なぜか今文章を書いている人が私であり、他の人は決して私ではありません。この違いは何が生み出しているのでしょうか。

 これで問題は終わりではありません。独我論が端的な出発点であるはずなのですが、実際の現実はそうなっていません。私は他の人にも独我論的なものをある程度は認めています。ただ現に感じている私というこの感じは、他人の中に決して認めることはできません。概念的には独我論的なあり方をしているだろうなと想定はできても、現に独我論的なあり方をしているとは考えられません。もし感じてしまったなら、それは私の独我論に吸収されてしまうはずだからです。つまり私から見たら他人の独我論は端的に存在しないのです。しかし、今のことはそのまま私にも跳ね返ってきます。他人の私も独我論を端的な出発点としていて、私の独我論は概念的には認めるが現に存在しているとはとらえられないのです。ここには非対称な関係があります。

 つまり私は矛盾した存在であるのです。ある意味ではそれがなければ何もない出発点であり、それだけしかありません。しかしいくら現実を精密に調べようが、それを生み出している物質的原因は見つけられません。それは何もないも同然です。これだけは絶対あるともいえるが、そんなもの何もないともいえる。

 ここがほかの存在との驚きの違いではないでしょうか。地球など万物の存在はなぜあるかはわからないが、それには矛盾は含まれていません。ただ、何のメッセージもなく私たちの眼前にあるという不思議さだけあります。それに対して、私はなぜあるかもわからないし、その存在は矛盾をはらんでいます。そもそもそれをあるっといってもいいいのかもよくわからなくなります。ただ、私は絶対にそれがあるという風に言うことが絶対的な始まりで和えることは疑えない。

 全ての出発点であるが、矛盾をはらんだ危うい存在様式こそ、私の問題であり、今回全く触れていない今の問題であり、それが他とは違う驚きをもたらすのではないでしょうか。

 今日はここまでにしたいと思います。

 

 

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