サルトル、対自存在。

 講談社選書メチエの「極限の思想」というシリーズの、「サルトル(著:熊野純彦)」を読んでいます。
 サルトルといえば、実存主義の筆頭であり、当時の哲学界のスターであったということ。そして、レヴィ=ストロースに代表される構造主義に乗り越えられたこと。そのような、高校倫理的な知識ほどしか知りませんでした。サルトルに触れる良い機会かと思い読むことに。

 今回は対自存在について書いていきたいと思います。

 この本では、まずデカルトのコギト・カントの統覚の思想と並べられて考察されています。

 デカルトは方法的懐疑の果てに、全く疑いえない私、コギトにたどり着きます。いくら全てを疑っても、思考している私という存在は疑えない。あの有名な「我思う故に我あり」です。
 しかし、そのように「我思う故に我あり」というふうに私に気づく以前に、私は存在しなかったのでしょうか。そうではないでしょう。懐疑の真っ只中でも、私という存在は居合わせていた、現前していた、というふうに言えるのではないでしょうか。
 ここで何かに没頭している瞬間を考えてみましょう。例えば、映画に没頭している場合。そんな時私は、映画の世界の中に吸い込まれています。座っている私なんて忘れて、映画の世界にいます。しかし大きな物音がして、ハッと我に返ったとしましょう。この時、映画に没頭していた自分という存在に気が付きます。「あぁ、今まで私は集中して映画を見ていたんだな」と振り返ります。ではそのように振り返る以前、没頭して映画に入り込んでいる時点では、私は存在しなかったのでしょうか。いや、そのように没頭している最中でも、私という存在はその場所に居合わせていたと言えるのではないでしょうか。
 このように「我思う故に我あり」という思考によって得られる私を「反省的コギト」と呼ぶとすれば、そのような思考に至る以前にもすでに居合わせている私を、「反省以前のコギト」というふうに呼ぶことができます。
 「反省的コギト」が存在しえるのは、「反省以前のコギト」が「つねに」「すでに」存在しているからこそです。換言すれば、「反省的コギト」を可能にするような必然的な条件が、「反省以前のコギト」ということです。

 この「反省以前のコギト」とカントの統覚を接続していきます。カントの統覚とは、私の全ての表象には「〜と私が考える」が、ともなうことができなければならない、ということです。
 より詳しく見ていきましょう。私は今パソコンの画面と本を交互に目を向け、思考しながらも、椅子に接触している感覚を感じながら、外の車の音を聞いています。このような感覚は全てに「私は考える・感じる」がつけることができるでしょう。というか、つけざるをえない。もし視覚は私に属していながらも、聴覚が私に属していない、なんてこと考えられないでしょう。聞こえている限りは、私が聞こえているのです。
 このように感じたり考えたりすることには、全てに私というものがつかざるをえないということを、カントは「純粋統覚」というふうに呼びました。
 

 ここでサルトルは、カントの「純粋統覚」に対して、次のような解釈を加えます。「純粋統覚」は全ての表象に対してついているのではなく、つかざるをえないと言っています。つまり、事実問題として必ずついているのではなく、権利問題としてつかざるをえないと言っているのです。
 例えば、私は参政権の権利を持っています。そして権利を持っていながらも、参政権を行使しなかったとしましょう。この時、事実問題として私は参政権を行使していません。しかし、参政権を持っているかと聞かれれば、持っているよ、と答えざるをえません。
 同じように「私は考える」も、実際に考えていなくても、権利として存在しているのです。映画に没頭している最中も、その時は事実問題として「私は考える」はついていないかもしれませんが、没頭している最中にトントンと肩を叩かれそう聞かれたら、「私は考えている」と言わざるをえないでしょう。実際問題、そんな奴の質問に答えるかどうかは別としておいて。

 私が持っている、感じたり考えたりする意識は、「〜についての意識」というふに、外部の何かを指し示している必要があります。パソコンの視覚映像・椅子の触覚・車の音・今考えている思考など、意識に現れるものは全て意識以外の何かです。
 このように、意識上に現れる存在を即自存在と呼びます。即自存在は意識に現れた通りに存在しています。これはかなり当たり前のようなことのように思いますが、次の対自存在を考えると、このことがさらに明瞭になるはずです。
 では、意識自身はどうでしょうか?意識というのは外部を指す必要があることを上で指摘しました。となると、意識は意識自身を指し示せないということになるのではないでしょうか。意識とは外部を指すと定義すれば、自分自身を指すなんてのは定義から外れることでしょうから。
 しかし「意識についての意識」、つまりは反省的意識は確かに存在します。さっきから頻繁に例に挙げている、映画の世界から我に返る瞬間など。これはどういうことでしょうか?
 これは意識が意識自身を超越した、というふうに言えるのではないでしょうか。意識が対象的次元に存在する時、その意識を超越して包摂するような外部の意識が存在するといえるのではないでしょうか。
 このように意識を二分すると確かにうまくいきそうです。しかしそれでは、意識はちゃんと指し示したものを指し示しているのでしょうか。自分を指し示そうとしたら、その外側にも指し示したい自分が存在してしまうのだから、その指し示しは失敗しているのではないでしょうか。指し示したい自分が必ず外側にあぶれてきてしまいます。つまり意識は指し示したいものを決してさ示すことができず、分裂した意識の狭間の揺れを解消することができないのです。
 このような分裂を余儀なくされる存在を対自存在と呼びます。先ほどの即自存在と比較すると、対自存在の性質の特異性が浮き彫りになると思います。パソコンについて意識する時、意識されるパソコンは、何のブレもなく存在します。対して意識について意識する時、つねに意識される意識と意識する意識に分裂をきたしてしまいます。

 意識は、つねに自己が規定した意識とはずれていってしまう。これは人生の演技性と関係するでしょう。
 例えば私がある女性の恋人である場合、私は自身をその人の恋人であると自己規定します。しかしそこには、自己規定している外部の意識が存在してしまいます。もちろん恋は盲目、映画に没頭するように、その外部の存在を忘れ恋にハマることもあるでしょう。しかし、権利問題として必然的に、それを傍観する意識というものも存在するのです。つまり、私はある人の恋人である、という役割を担っているという外部的な視点が確実に確保されざるをえないということです。
 サルトルはこのような流れで自己欺瞞の話を挟み込んでいますが、自己欺瞞なんて生じえないでしょう。
 欺瞞の場合は、その裏に確固たる何かがあります。私がお金が欲しくて結婚詐欺を働こうとし、ある女性に対して恋しているふりをしたとしましょう。これは自己欺瞞ですね。この場合、自己に対いして誠実になって、その女性にストレートに「金くれ」とせびることもできます。これは実に誠実な態度ですね。
 しかし、意識の場合、確固たる何かが存在しません。となると誠実になることもできません。いくら本気である女性を好きであったとしても、それを構成する側の意識には、その本気さは存在しません。つまり、どれだけ足掻こうと、誠実という次元が開かれないのです。だから、自己欺瞞なんて次元も、そもそも存在しないのです。
 サルトルは人生をマジの次元で考えるから、自己欺瞞なんて言葉が出てくるのでしょう。しかし人生を演技の次元で考えれば、そもそも欺瞞なんてものはないのです。
 
 
 


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