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「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」を読んで part3

「第2章 デカルト的省察 ―<私>の存在は世界の内容にいかなる影響も与えない」をよんで


 まずは要約から。

 デカルトは懐疑の果てに欺く神にさえも勝利を得ることができました。「どんなに騙そうとしたって、考える限り私は存在するんだ」というふうに。しかし、神である存在がデカルトの勝利を理解しえないというのもおかしいはずである。なんたって神なんですから。一体どういうことなのでしょうか。

 知識には誰にでも当てはまる一般的な知識と、その人にしか当てはまらない特殊な知識があります。欺く神が理解できるのは前者の知識だけなのです。「誰であれ考えることをすれば、欺く神である私のまやかしを切り抜けることができる」という概念的な理解はできるのです。逆に後者の知識を欺く神は理解することはできません。「僕に端的に与えられているから」という理由を神は知ることはできないのです。ここで一つ注意です。後者の特殊な知識は、任意の特殊な知識ではなく、この特殊な知識ということです。だから、「僕に端的に与えられている」という理由は、これを読んでいる人が考えて発したとしないと、ここで言いたいことは言えなくなってしまいます。

 これはすごく面白い構造をしています。デカルトの勝利の原因である端的なものを、僕たちは一般的な知識としてしか理解することができません。ただそのためには、端的なものを知っていないと何を理解しているのか分からなくなってしまいます。逆に、僕の感じている端的なものも、他人は理解できませんが、他人は一般的な知識としてはそのことを必然的に知っていなければならないともいえるのです。

 欺く神にからさえ、勝ち取ることができた私を<私>と表記します。この<私>には不思議な二面性があります。一面はこれがすべての存在の礎となっているということです。もう一面は、他者から見れば存在しないものとして扱われるということです。存在の基礎でありながら、存在として認められていない。他者から見たら存在しないのですから、「<私>の存在は世界の内容にいかなる影響も与えない」といってもいいのです。言い方を変えたら、<私>は無寄与成分であるということです。

 しかし、無寄与成分である<私>は、実際この書き手である私にくっついている(ように見えます)。無寄与成分の寄与という事態が起こってしまっている(ように見える)のはどうしてでしょうか。

要約終了。



  ここではデカルトのことについてもう少し書いていきたいと思います。僕の持っているデカルトについての知識は高校倫理で習ったものぐらいしかありませんので、自分の持っているデカルト像を提示して、永井さんが提示しているデカルト理解とどう違っているのかをもう少しはっきりとさせたいと思います。


 僕の持っていた知識を端的に言ってしまえば、「デカルト=心身二元論」というものです。デカルトは「我をもうゆえに我あり」と宣言して、精神こそが真に存在するものだと確信した。そして、精神が入る入れ物としての肉体があると。ただ、二元論的な考え方には欠陥があります。デカルトは物質的なあらゆるものを疑った先に、精神という確固たるものを発見しました。精神は物体ではありません。では、物体ではない精神がどうやって物体である肉体に影響を及ぼすことができるのでしょうか。デカルトは脳の松果体という部分がそのブリッジを果たしていると考えましたが、松果体は物質であり、それが精神といかに関係するかは説明できていません。これが二元論の欠陥です。
 永井さん曰く、上のようなデカルト理解の間違いは、「われ思うゆえにわれあり」の後に、即精神という存在を確信したことです。精神というものはデカルトさんにも永井さんにも僕にも存在しているとされるものです。ただ、デカルトさんが言いたいのは、デカルトさんが感じているこれが存在すするんだということです(僕はこれを概念的にしか知りえませんが)。これを直ちに万人に当てはまる精神というものに置き換えることが、デカルトさんの誤りだということです。


 僕が高校生時に初めてデカルトの心身二元論を知りました。その時の感想といえば、「昔の人はわざわざこんな考え方をしたんだな」、という上から目線なものでした。「精神なんて、なんか少しオカルティックな感じで胡散臭いじゃん。そんな精神なんてものを想定したって、うまく現実を説明できるはずないじゃん」みたいな。その時の僕は科学的であることこそが正義だと思っていたので、精神なんてそんなふんわりとしたものを認めたくはなかったのです。その後僕は心理学科に進学しました。そこで心理学とは次のようなものだと教わりました。「心理学とは人間の行動の科学である」と。人間の心は見えないブラックボックスのようなものなので、それを直接観察するのではなく、人間の行動を観察することで心について考えいこうという説明でした。科学的にとらえられるもの以外は胡散臭い、インチキだという風に考えていた僕にはぴったりでした。河合隼雄さんなんかは、科学では扱いきれない知があると言っていましたが、具体的に何なのか示されてないじゃんと、反発していました。ただ、僕はそれで完全に納得しきれない面もありました。やっぱり何か大切なものを見落としているような気がしてならないのでした。精神っていうとなんかあれだが、僕にしかないかけがえのないものもあるよなという感覚。


 今思い返すと科学に乗らないようなこれこそ、無寄与成分である<私>のことだったんだなと実感するようになりました。


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