孤独な共笑の地平の消失

まっちゃんが芸能活動を休止した。

時事問題にあまり興味はないが、とてつもない喪失感がある。まだ引退したってわけでもないのに。
まっちゃんがやったことを擁護したいとか、そんな気持ちは微塵もない。かといって、批判したいわけでもない。
TVにまっちゃんが今まで通りに出られないことが、ただただ悲しい。

自分がこの世と関わりを持てていたのは、笑いによってだと思う。スクリーン上に映る何かに対して笑うことで、それを見ている人と繋がれていた。
実際に隣に誰かいる必要はない。逆に、隣に誰かいると、気になって笑えない。
一人で笑い、ほかの誰かも同様に笑っていることを信じることで、なんだか救われていた。

ぼくの学生時代、アメトークが全盛を極めていた。
アメトークを見て笑うことで、かろうじて世界と繋がっていた。あまりメジャーなものは好きではないが、笑いは王道が好きだな。
だから宮迫さんの騒動も、同様にただただ悲しかった。世界との繋がりが断たれたような気持ちになった。

ニコニコ動画にも、このような孤独な笑いの連帯があったと思う。
好きな実況者がスキャンダルでいなくなったとき、これもまた同じくただただ悲しかった。

最近はもう笑いによって誰かと繋がっているという感覚がかなり薄れてきた。TVも見ることが少なくなっていた。それでも、TVに出ているまっちゃんをたまにみると、かろうじて世界と接続している感じがあった。

しかしその頼りない紐帯も、今回の騒動で完全に絶たれてしまった。

自分の人生は、スクリーンを眺めることで仮想的につくられていたのだとうことがよくわかった。
その意味で、人生は終わった。ここ数年の間も同様に感じていたが、改めてそう強く感じた。
もう孤独な共笑の地平は消え去ってしまった。
しかし、また別の意味で人生が始まった。犀の角のようにただ独り歩むような人生だ。

虚無だ。
虚無だが、生きられる。

哲学はおそらく好きだが、それは笑いのような連帯感を生み出さない。哲学は共笑しない。

ちなみに、「おそらく」好きといったのは、議論が苦手だからだ。
哲学と言えば、ソクラテス=プラトンに端を発する「対話」に本質があるといえるだろう。しかし、その「対話」がものすごく苦手なのだ。
哲学の本を読んだり、自分に興味のあることを考えたりするだけだ。これは哲学が好きと言えるのか。

それも含めて、もういい。たとえ哲学と言えなくとも、しょうがない。それが好きなのだから。
ひとり歩んでいくしかない。


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