カート・ヴォネガットの時間

 カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」を読みました。今回初めてでした。小説の名作と呼べれているものは、ほとんどことごとく読めていません。これもその一つでした。
 カート・ヴォネガットといえば「タイタンの妖女」は読んでいました。というか、これは結構好きで、複数回読んだし、英語の勉強がてら原典も読んだりしました。まぁ、英語の方は途中で読むのをやめてしまいましたが。

 上記2作で共通している部分があり、それは時空間を全て等価に見渡せる存在がいることです。「スローターハウス5」では、主人公のビリー、「タイタンの妖女」ではラムファードという、身体を失った代わりに全知的存在になった男。
 ラムファードの場合はリアルな身体が実体化する時間が限られており、ビリーの場合はわりかし普通なのでそこは違うが、ともに時空間という4次元を等価に見渡せます。
 空間を見渡すというのは普通の感覚でしょう。人間は視力の限界があるため全てを見渡せませんが、限りなく無限の視力を持つ存在がいたら、全てをくまなく見ることもできるのでしょう。
 そして時間をも隈なく見渡すのです。あたかも年表を一望するみたいに、全ての時間を一挙に把握する。時間を見渡すというのは、普通は無理なことです。過去はまぁある程度可能ですが、未来は全くもって不可能です。
 
 ここでマクタガード→永井のA系列とB系列の議論が思い出される。時間を全貌を掌握できるということは、B系列的に時間を把握するということでしょう。
 しかしやはりB系列だけでは収まりきらないのです。ラムファードの場合、彼は時空間の全てを見渡せるため、彼は自身の死の瞬間だけでなく、死後も生前の世界も全て知ることができます。しかしそんな彼も特定の時間・空間に存在せざるを得ないのです。そして彼は死の瞬間、しっかりと苦しんで死んでいくのです。

 ここには時間を超越した存在と、時間に囚われた存在とが混在しています。こう言えるのではないでしょうか。彼の全能のB系列的時間把握は、A系列的、正確にはA事実的な時間の開闢から生まれざるを得ないのではないでしょうか。
 ラムファードが「私は全ての時空間を見渡せる」というとき、それを発言しているその時点のラムファードの発言でしかあり得ません。もし全ての時間を超越した存在なのなら、その内部に存在することはできません。

 スローターハウスでは、主人公が戦争で苦難の状態にあるとき、死んでしまう自分の姿も等価に見通せたため、その苦難を軟化して受け止めることができるという描写がありました。
 これはB系列的な全時間を見渡せる視点に立てば、現在という一時点の出来事なんて単なる瑣事にすぎないと見ることで、苦しみを減じているということです。
 しかしどうしてもA事実的な受肉の苦しみを脱することができなのではないでしょうか。どんなにB系列的な時間把握が可能でも、それを把握しているのはA事実的なこの現在なのですから。外部から苦しみを観察することはできなく、中心にある苦しみがあることには変わりないからです。

 なんだか取り止めもないことを書いているようです。
 それにしても、自分の読書の受容能力の低さにがっかりする。読みたいものが複数あるのに、一つのものに取り掛かってしまうと、エネルギーがそちらに取られてしまい、うまく均等に分配できない。また、新しいものを読むよりも、すでに読んでいるものを再び読むことの方が好きなため、そこにも自分のエネルギーが割かれてしまう。そういう性分なのだと割り切るしかないのかな。

 

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