Re:「精神現象学」を読む、その4。

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録。
以下本文開始。


まえがき(p.25 l.18 -  p33. l.20)

 前回に引き続いて、他の学問と哲学の違いについて言及していくことになります。

 特に、数学との比較に力が入れられています。数学をなかなかディスってますが、それがどこまで妥当なのかの判断は、私にはできかねます。ただ、ヘーゲルの主張をかいつまめば、次の2点に集約できるでしょう。

・命題が真/偽のどちらかにキッパリとわかれてしまう(つまり概念の運動がない)。
・外部からの介入がある(つまり純粋でない)。

 一応、それぞれ簡単に拾っていきます。
 命題の真/偽がどちらかにキッパリとわかれてしまう。
 真は真で、偽は偽となります。体型は固定的となり、静的になります。これでは概念のあの運動がありません。精神現象学的な視点で見れば、数学は死んだ体系と言えるでしょう。
 外部からの介入がある。
 たとえば作図の必然性がないことが挙げられます。ここでは具体例が上げられないですが、垂直二等分線を考えてみます。これは線分の両端にコンパスの針を置いてそれぞれから半円を描き、その2交点を通る直線を引くと垂直二等分線になります。しかし、なぜそのような作図になるかということに内的必然性はないのです。これは作図に限らず、その他の問題を解く時でも、なぜここでこのようなことをするのかということがあるのではないでしょうか。なんだか知らないけれどうまくいくから、としか答えられないような。これでは哲学の内的な必然性がありません。
 もっと根本的な外部からの介入の話もあります。数学は、数や図形という対象に対して、公理・定理・証明・推論などの操作を加えていきます。つまり数や図形の対象自体では運動がおきず、外部的操作に依存しています。内的な必然性に端を発する運動とは言えないということです。

 その他、直観主義や形式主義の批判も繰り広げます。
 ここでは形式主義に目を向けていくことにします。
 といっても、批判のポイントは変わりません。ここでいう形式主義とは、あるカテゴリーに事象を当てはめていくような主義でしょう。しかし、そのような固定的な考えでは、概念のダイナミクスは捉えられないということです。
 形式主義は、それに手慣れない人にとっては、巧みに何かを分類・分析しているように見えるが、それはちょっと慣れるとなんてことはない簡単なものだということに気がつくのです。


今回はここまで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?