「君が手にするはずだった黄金について」を読んで。〜本物と偽物、鏡〜 

小川哲の「君が手にするはずだった黄金について」を読む。

表題作を含む6作の短編からなっている。

僕の中の小川哲のイメージは、SF的な奔放な想像力でもって小説世界を形成する小説家だが、今回は珍しく、日常的なスケールの私小説的作品群だ。

帯の朝井リョウの言葉がすごく適切な作品紹介となっている。引用してみよう。

対極としたい存在との僅かな交点から拡がる宇宙。



本物と偽物について。

この本にはたくさんの偽物が出てくる。占い師、詐欺師、剽窃する漫画家。小説の主人公は、今回は私小説の色合いが強いので作者と言ってもいいが、それらの存在に対して軽蔑の感情を向ける。特に占い師に対して強い反感の思いを吐露する。
しかし小説家である主人公は、もしくは作者は、自身の存在もそのような偽物の仲間ではないかとも感じてしまう。もちろん、小説の起こす奇跡を信じてもいる。ただ、それでも、自身の存在の胡乱さを自覚せざるをえなくなる。

なぜそれらの存在は偽物とされるのだろうか?

嘘をつくから、というのが端的な理由だろう。
占い師はあたかも相手の秘密を知っているふりをし、詐欺師はお金を儲ける方法を知っているふりをし、剽窃する漫画家は自分で作品をつくったふりをする。

はて、小説家はどうだろうか。ここには含まれない気がする。
というのも、偽物の例のなかの漫画家だけ、「剽窃する」という修飾語をつけている。そのような修飾語のない漫画家なら、偽物とは言われないだろう。

小説家や漫画家が偽物に含まれないのは、悪意がないからだ。
この回答はどうだろうか。

例に挙げた偽物は、嘘をつくことによって誰かを騙そうとしている。誰かを騙して利益をえようとする悪意がある。しかし小説家や漫画家は嘘をついて騙そうとしていない。

悪意を持って嘘をつく、これを偽物の要件と考えた。となると、小説家や漫画家は善意を持って嘘をくつから偽物ではない、といえることになる。
しかし、そこで簡単に首肯できないから、悩むのだろう。

なぜ小説家は嘘をつくのか。読者を楽しませたいから。こんな善意はもちろんあるだろう。しかし、その善意が本当の理由だろうか。指図してくる上司がいなく、満員電車に乗らなくても良い、比較的自由に行動できる、そのような自己利益を実現するために小説家になっているのではないか。
小説家は、あたかも自身を社会的に価値をもった崇高な存在であるかのように振る舞うことで、そのような利己的な欲求を巧みに覆い隠しているのではないか。そのような巧妙な意図がある分、わかりやすい偽物よりも、より狡猾な悪を持った偽物と言えるのではないか。

逆に、本物とはなんだろう。

悪意を持った嘘をつくのが偽物なら、善意を持った真実を言うのが本物だろうか。
なんだか違う気がする。何が違うのだろう。「真実を言う」だけにとどまるのは、どこか頭でっかちな小物感が出てしまう。
だから何かを「言う」存在ではなく、何も言わない存在、何も言わずに善を「なす」存在が本物だろう。

言葉を使う存在はみな偽物だ。これは極論だろうか。
騙そうとして嘘をつく存在は明らかにそうだろう。では、嘘をつかないが言葉を使う場合はどうか。その場合でも、偽物になってしまうのだろうか。
偽物を悪意を持った嘘つきと定義した場合、そんな極論もいえてしまうのではないか。もう少し付け足すなら、ここで言う悪意とは、自己利益の追求とほぼ同義で使っている。健全な自己利益の追求もある、と言う意見もごもっともだが、ここではあえて潔癖な定義をしている。
人がなにか言葉を発する。発すると、その言葉を発した主体に何らかの意図があったと解釈される。そしてその意図は、たとえ表面的には善意に満ちていても、その根本は自己利益に行き着いてしまう。

言葉は自己利益に感染してしまう。

自己利益を脱色した言葉は可能だろうか。



ここで小川哲の小説に戻ってみる。

6つの短編の中から、「小説家の鏡」について書いていく。ここからはそのネタバレも含むのでご注意を。


この短編の「私」は、友達の奥さんがとある占い師にハマってしまっていることを知り、占い師に憤りを感じる。
「私」は占い師のやり口に精通していたため、その占い師の詐欺の手口を暴く方法を友達に伝授し、客として占い師のところに殴り込むことを勧める。
しかし占い師はそのような心を開かない客をあしらう術も心得ており、途中でセッションを切り上げ、お代をもらわずに友達を帰す。
そこで、「私」が占い師のもとに殴り込みに行くことになる。だが、あからさまに戦いに行くと躱されてしまう。そこで「私」に妙案が浮かぶ。今執筆中の主人公になりきり、その主人公として占い師のもとに出向く。そのことを占い師が見抜けなかったら、占い師が偽物であると証明できると考えたわけだ。
この作戦は、「私」の思いがけない方向に転がっていく。
最初は主人公のふりをしながらも、それを客観的に俯瞰し占い師に騙されまいとする「私」がいた。しかしそのような俯瞰した「私」がふと消え去る瞬間が訪れる。
「私」は今書いている小説の結末を決めかねていた。その小説の主人公は、実際の「私」の悩みを投影しており、小説の結末はある意味「私」のその悩みの解決も意味していた。
そんな中「私」は占い師に、「どうすればいいですか」と聞いた。これは「私」が主人公になりきっての質問であったはずだった。だったが、結末を決めかかねている小説家としての「私」、そして主人公の悩みを現に消化し切れていない「私」がその主人公と重なり合い、心からの悩みの吐露になり変わる。
その瞬間、占い師と「私」は一つになった。お互いの心が完全につながりあうことができた。涙まであふれてきたほどだ。
もちろん正確にいえば、そのような気がしたと言うだけだ。
実際そのすぐ「私」は我に帰り、占い師の詐術を暴く方向に舵を切る。
結局、友達の奥さんの洗脳を解くいう「私」の目論見は失敗に終わった。しかし、占い師との間で起こったあの瞬間がきっかけで、結末に悩んでいた小説は全面的に書き換えることになり、完成することになった。
嫌悪する占い師と親密な一体感を感じ、そのことで作品ができてしまったのだ。

ここでは「私」が合わせ鏡のように反復する。まずは作者である小川哲の私、この短編の主人公である私、その主人公が書く小説内小説の私。小川哲は自身の姿を見るために短編の主人公を観察し、その短編の主人公も自分を見るために小説内小説の主人公を観察する。小説内小説の主人公の私も、もしかすると小説によって自身の姿を見ようとするかもしれない。
私小説という鏡を使い、私は私を観察し、何かを発見しようとする。しかしその鏡はどこまでの自己の中での鏡だ。ヘタをすると、無限後退の泥沼へと突き進んでしまう。

そこに他者である占い師が現れる。
占い師と「私」のセッションは最初ドライブしていかない。というのは、「私」が自分の鏡の中に閉じこもっていたからだ。占い師には「私」の鏡になろうとし「私」に質問する。しかし「私」は占い師の鏡を見ず、自身の手鏡である小説内小説の私を見ながら話す。
そんな中、奇跡のような瞬間が起こり、「私」は占い師の鏡に自身の姿を写し、その姿を見ることになる。

占い師はその瞬間をこそ求めている。そして、小説家もその瞬間を求めているのだ。両者は共にその奇跡の瞬間を求めている。その瞬間を真摯に求める姿は、どちらも目指すべき規範としての鑑とも言えるだろう。

「私」は占い師と一体感を感じた直後に、シラフに戻る。これは他者の鏡に飛び込むことに恐怖したのだ。そして自身の鏡の中に再び閉じこもる。その世界では、占い師は単なる詐欺師である。


さきほど、自己利益を脱色した言葉は可能かと自問した。

その答えは「鏡としての言葉」ではないか。占い師の言葉こそ、自己利益を脱色した言葉になりえるのではないか。
しかし、そう簡単にはいかない。完璧な鏡になり、自己利益を脱色した言葉を使うことで、結局のところ占い師は自己利益をえることができてしまうからだ。

となると、自己利益を脱色した言葉は不可能ということなのだろうか・・・

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