受肉と命名

 私が使っているJというユーザー名、これは中学時代のあだ名だ。なぜ今もこの名前を使っているのか?この名前が気に入ってるから今も使っているというわけではない。ただ、私には、自分に他の名前を命名することができないから、この名前を使っている。

 中学生になった頃、私はおそらくイジメられていた。おそらくと言ったのは、それほど過酷なものではなかったからだ。私の周りを見たら、もっと酷いイジメを受けている人がいたため、イジメられたと簡単には自認できないかった。しかし時間がたった今、自分を時間的他者として眺めたとき、アイツはイジメられていた。
 そんな中学時代、私は急にJというあだ名がつけられた。その理由はもう思い出せない。ただ、私を面白がる心だけは透けて見えていた。だから、Jという名前は好きではなかった。それはある種、いじめの象徴であった。

 ただ、Jという名前には別に意味も付与されることになった。
 小学生までの私は、人との会話が極端にできなかった。周りの人がとても雄弁にさまざまなことを喋っているのを眺めて、ただただ感嘆していた。私には、話すべき言葉がなかった。私には、世界に所属している感覚がなかった。
 Jという名前を与えられた私は、道化として振る舞う道を自ら選択することで、イジメをすり抜けた。イジメの状況を笑いに変えることで生きる道を選んだ。すると、小学生までなかった自分の言葉が、湧いてくるのを感じた。そのことで、世界に根を張ることができたと感じた。
 Jという名前は、この世界にしっかりと受肉したということも意味するようになったのだ。

 社会に根を張る必要はまったくないと思う。ただ、生きていくならば、根を張らないという方策も、一種の方策として捉えられる。なんらかの受肉は不可避だ。私は、Jという名前で受肉を果たした。それはある意味不本意なものであったが、不本意であるからこそ、受肉を受け入れることができた。

 もう中学時代から時はだいぶ経ち、私をあの頃の記憶で持ってJと呼ぶ人とは、もうほとんど会っていない。だからJという名前はもう役割を果たしたとも言える。

 ネットの空間に飛び込むときも、その世界に受肉させる必要がある。しかしネットのサービスは、自分で自分を措定しなければならない。私はそれがどうも苦手だ。自分をなんらかの作為でもって形成することが本当に嫌いだ。だからネット上の名前を自ら決めることもすごいストレスだ。
 本名でもアリだったと思う。本名こそ不可避なもののような気もする。しかし、本名は、私が受け入れるという意思を介在させることができない。本名は偶然的すぎる気がする。
 私に残された選択肢は、かつてこの世界に受肉したあの名前、Jを使うことだけだった。そこでJを選ぶのも一つの作為になろうが、それでもいい。Jには、あのイジメも象徴しているが、同時に受肉の瞬間も象徴している。群然与えられたが、私の行動がそれをある種の必然に変えた。
 これは大袈裟な言い方だろう。イジメをイジリに変換するなんて、よくあることだ。それを大袈裟に表現するのは、なんとナイーヴなことだ。自分でもそう思う。だが、それでもそんな批判は及ばないところがあるはずだ。陳腐な表現の背後にある何かの存在を、私は消してしまいたくない。

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