Re:「精神現象学」を読む、その3。

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。
以下本文開始。


まえがき(p.16 l.10 -  p.25 l.17)

 絶対的に自己の外部に出ていきながら自己を認識すること、この活動の場(エーテル)が、学問のおおもと・知の一般であるといいます。これは前回の復習ですね。

 しかし、上のような学問観は、その他の学問の態度とはかなり違ったものです。他の多くの学問は、自分が対象を認識するという構造のはずです。至極当たり前な態度ではあると思います。しかし、哲学は自分が自分から離れて観察し、さらに元の自分に返っていくという運動になります。これは通常の意識にとっては、不自然な態度ですが、それこそが目指されるべきなのです。

 自己のこのような運動を記述するのが「精神現象学」であるとヘーゲルはいいます。

 自己は最初素朴な状態ですが、自己が自己を超出して再び自己に還っていく運動を繰り返していく中で、徐々により高度な自己に成長していきます。となると、成長以前の要素は成長後に不要になりそうですが、そうでは無いのです。自己は単純で純粋、つまり分割されることなく外部からの付け足しもない状態です。ですから、成長前の要素は破棄されたのではなく、内部に単純で純粋な形に統一されているのです。
 一気に完成された精神を見ても、その内部にある複雑な成長の過程は見えてこないのです。自己が次第に統一されていく様を逐一観察していった果てに、完成された精神は意味を持ちうるのです。
 以降、細部はいろいろあるのですが、このような自己の運動についてしつこく説明をしています。かいつまみながら、外観してみます。

 精神現象学の出発点は素朴な意識です。そこから精神はだんだんと発展していきますが、何かが外部から付け足されるのではありません。必然的な内的なつながりをもとに、有機的な体系をつくっていきます。
 最初の素朴な意識は、知と対象という構造で物事を把握します。しかしその対象が精神自身となるとき、精神は精神として発展していきます。さらに個の精神が統合されていき、世界と自己が同様となる地点、それが精神現象学の終着点となるのです。

 ここで偽についての扱いについて注意を入れています。
 普通、偽なるものは捨て去られるべきもので、後生大事に持っていくものではありません。しかし、精神現象学の運動には偽がつきものです。なぜなら、統一された自己から分裂して、互いが互いを否定するという運動がつきものだからです。その後、統一されるのですが。
 数学などでは、偽は単なる偽であり、真の構成には関係ありません。しかし、精神現象学においては、偽を経てこそ真理が形成されるのです。


 

 


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