英語コンプレックスの正体

例えば英語ネイティブの人と英語OKな日本人、英語ダメな日本人それぞれ数人でご飯行ったりすると、英語ダメな日本人(俺もこの中に入るけど)はネイティブの会話スピードについていけずニコニコしているしかない。そういう時はたいてい "Hey, don't be shy!" ってな感じになるのだが(むしろ日本人からそう言われる)、それはシャイとは違うやろ、といつも思う。例えば英語以外、カタコトの中国語やイタリア語で相手と話そうとする時に日本人はシャイになるだろうか?ちょっとでも通じたらうれしい!ってなるのではないか?

俺の場合は理由ははっきりしている。長らく認めないようにしていたが、自分に英語コンプレックスがあることを認めざるを得ない。外国人と話すのは好きだ。タイ人の友達もいるしスウェーデン人の友達もいる。駅のホームでExcuse me と話しかけられたらちゃんと対応するし新婚旅行のイタリアでホテルのバーテンダーと片言の英語で会話したのは楽しかった。しかし違うのだ。仕事はつらいのだ。海外旅行や友達との会話とは訳が違うのだ。偉い人の対応(1対1で間を持たせるやつ)しろと言われると吐きそうになる程嫌だし海外出張ではいつもコミュニケーションチャレンジするものの七転八倒しうちひしがれて帰ってくる。尊敬する偉い先生に会っても話しかけられずへこむ。海外在住が長くて英語のプレゼン超うまい人をうらめしい眼で見つめ、大学時代からTOEIC900点超えてましたみたいな人は違う生き物のように感じる。認めざるを得ない。英語が自由に使えない、聞き取れないことに強い劣等感を感じている。そして仕事で必要になることがわかりきっているにもかかわらず過去にきちんと訓練してこなかった自分を責め、英語から逃げ回っている自分を恥じている。まだ英語ができずにいるの?系のブログタイトルを見るたびにビクッとし、海外留学や英会話学校入門に踏みきれない自分に何とも言えないみじめさを感じている。英語が苦手だ、という悩みを英語得意な知人に話しても、十分うまいから自信持ってとか、自信を持つことだとか言われるんやけど、そういうことではないのだ。

こんな俺の気持ちをGoogle先生ならわかってくれるのではないかと英語コンプレックスで検索したらこの本を見つけた。

誰もに受ける本ではないと思うが、俺とは相性が良かった。「意思疎通に共通語が必要だと言うのなら英語を学ぶだけで良いはずなのに、欧米流のコミュニケーションマナーも同時に強制してくるのはおかしい」とか「英会話スクールほどコンプレックスを増強させてくる場所はない。英語を学びたいなら英会話学校から可能な限り離れるべきである」とか、のっけから飛ばしていて痛快である。同時に、夏目漱石など過去の偉人文豪も強いコンプレックスがあったんだよと紹介されていてちょっと気持ちが楽になる。曰く、コンプレックスの根源は身体的な特徴の差、つまり「背が高い白人こそが美しい」という感覚に基づく身体的なコンプレックスに端を発している、とはっきり書かれており、そういえばそうかもと腹に落ちた感じが俺としてはあった。俺が海外で特に話しかけづらいのは、背が高い白人もしくは黒人男性、さらにスキンヘッドだったりあごひげをたくわえていたりするともういけない。逆に話しかけやすいのはアジア系の人や自分より背が低い人、若い女性などなど。欧米コンプレックスとはすなわち肉体的、生物的なコンプレックスなのかもしれない。自意識が強く自己評価が高い人ほどコンプレックスを抱えるものなのかもしれない。読み進めていくといやいや流石にそこまでではないでしょと言う程の偏屈な主張もあるのだが、英語コンプレックスってつまりこんな感じでしょ、それってこういう原因がある訳でしょとリストアップしてかみ砕いてくれるのがわかりやすく、自分を見つめるのにすごく役に立った。いったんみじめの極致まで落ち込むことが再生には必要である。

ところが上記はこの本の一章の話で、二章冒頭では「一章の話は実は20年前の若いころに書いた話で、今ではこのような英語コンプレックスはずいぶん薄まってきている」と過去の話にされてしまっている。おいおいマジかよ。そりゃないだろ。俺のこの共感をどうしてくれるんだよ。俺は20年前の古い人間だと言うのか。ねーわ。そりゃさ、かつてより日本のコンテンツは世界に認められてるしネット越しに海外の良きも悪きも伝わってきて、国民感情としてのコンプレックスは減ったんだろうけど、じゃあ今の俺のこのつらみは何なのさ。なぜ「ここがヘンだよ日本人の英語」系の本が巷にあんなに氾濫していて、海外在住ブロガーがTwitterで「日本って今だに〇〇ですよね」系のマウント取ろうとしてくるのさ。筆者の言葉を借りれば、自分を「海外側」と見なしてマウント取ってくるのはコンプレックスの裏返しなのだ。

つまるところ、俺が感じているコンプレックスの根源は違うところにあるのだ。上の本の冒頭にも書いてあったけど、「一般人のコンプレックスは減っていく一方、一部の知的エリートの中では英語は話せなければ人間ではないかのような意識はますます強まり、それが強いコンプレックスにつながる」って書いてあって、そちらに近いんだわ。「できていて当然だ」「それなのに自分はできてない」と自分で強く感じているということなのだ。仕事するたびにコンプレックスが深まっていくのだ。コンプレックスを原動力にして死ぬほど頑張って英語堪能になった知り合いもいるが、それはコンプレックスを克服したのとは違うのだ。英語コンプレックスを脱出するには英語を上達するしかないのだが、英語コンプレックスのままで英語を上達させるのはとても難しいのだ。鬱病の人にもっと頑張れって普通は言わへんやろう。まずは病気を治さんことには始まらんのだ。

仕方ないから自分で自己分析を試みた結果、結局コンプレックスの原因は英語力そのものではないのだということが最近わかってきている。冒頭の"Don't be shy!"はシャイじゃなければ何なのだという話だが、「この状況で何を話していいかわからない」という万国共通の話なのではないかと思う。たとえば女性耐性の無い男の子が女の子に親しく話しかけられると何返事していいのかわからず茫然とするというのに似てるかもしれない。あるいは上等なレストランに入ってコース料理を頼んだもののテーブルマナーがわからず四苦八苦するというのにも似ているかもしれない。「へたくそな英語でも通じるから大丈夫」というのは「方言全開でも東京で生きていける」というのと同じで、それはそうやけどそれやとあかんって思う人もいるやろと思う。方言を恥じて口数少なくなった人はシャイなのだろうか?「下手な英語でも相手は聞いてくれるやろう」と思えるほど自分が仕事で偉いと思っていない。でも仕事で絶対認められたい。その気持ちの裏返しなのだ。あるいは、男社会のコミュニティで女性がどうのし上がるか、というのにも似ているかもしれない。男性化して生きていくか、女性性を武器に生きていくか、いずれにしろ相手にどう認めさせていくかという視点を無視する訳にはいかない、相手に認めてもらう必要がある限り。「英語とセットでマナーを強制される必要はない」が正しいとしても、相手のコミュニティに名もなき自分が参加していくためには相手のマナーを学ぶことも必要なのだ。筆者が「最近はコンプレックスが減ってきた」「英語が下手であることを恥じなくなった」と言えるのは、おそらく筆者が社会的に十分成功してこれ以上認めさせる必要がなくなったからではないか。今の俺はむしろ20年前の筆者と同じ状況なのだ。

と、いろいろ紐解いていくと自分の中で色んなことが符号してきて、気づけば英語コンプレックスから少し開放されたように感じる。個々の問題にかみ砕くことができて、ちゃんと対策を考えればむやみに恐れる必要がなくなったと感じられたから。そうなると不思議なもので英語の勉強のやる気が増した。というか抵抗がなくなった。素直に英語の勉強ができる。また、過度に相手のやり方(マナー)に合わせようとしすぎんでもええんやな、とも思うようになった。もちろん英語の勉強は必要だ、しかし同時に他の部分の対策も英語コンプレックス打破には有効である。例えば、ボロい私服を着ているときとパリっとしたスーツを着ている時で、海外でも(日本でも)店員の態度が違う。そういうのを積極的に武器として使っていけばよいのではないか。"Don't be shy!"はコンプレックスを増幅させるよくない言葉だ。「シャイではあかんなー」と思わされてはいけない。

俺がYoutubeでリスニングの練習をしていると、2歳の息子が強い興味を示す。英語の発音や抑揚に興味をひかれるらしい。日本語をなぞるのと同じテンションで、その早口の英語を繰り返そうとする。この純粋な熱心さが俺にも必要なのではないか。「こうであるべき」とか「情けない」とかそういう余計な邪念を捨てて、ただ純粋に英語を学んだらよいのではないか。同じ絵本を何度も何度も繰り返し読んでとせがみ、そのうちに内容と単語を覚えていく息子を見ると、俺に必要なのもこの純粋さと練習量なのではないかと思える。コンプレックスはいらん、しかし練習は必要なのだ。やっとスタートラインに立てたのでは?という気がしている。





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