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暴力を受けて育った子供の気持ち


過去を振り返るよりも未来を見ていたい。
だけど、たまには振り返ってみる。

今日はちょっと悲しい話。



母親がしたことは、
物心のついた子供の記憶に必ず残っている。

私は、小学校3年生くらいから
小学校6年くらいまで暴力を受けていた。

追いかける。殴る、蹴る、罵る。

空腹でも食べさせてもらえない時もあった。

「このカスが」「ろくでもない娘だ」「最低だ」


そう言われ続けた。



寒い夜、外に出されて入れてもらえなかった。

暗い住宅街に、無力で幼い子どもの自分。

人が通り過ぎるだけでも恐ろしい。
何をされるか分からない。

泣き叫んでも入れてくれない。

両親は外面がよかった。近所も気付いてくれない。


今まで愛情を注いでくれていた 
信じていた、大好きな母親に裏切られたこと、

見放されたこと。

そして、手を挙げるときの恐ろしい表情や行動。

今でも忘れることが出来ない。

子供の私は、常に母親の機嫌を伺っていた。


全て私が悪いのだ。
私がいい子にしてないから、母親は怒っている。

母親を望むような娘でいれなかった。

母親が望む点数をとれなかった。

母親が望む 上機嫌で愛嬌のある娘になれなかった。

そんなに憎いなら、怖い思いをさせるなら

殺して欲しいと思った。

どうして産んだんだろうと思った。

あまりの苦しさに

殺して欲しいと口に出して言ったこともあった。


辛かった。

父も加担することがあった。
弟は庇ってくれなかった。

私は、従順ではなく、
納得できないことに口答えする小学生だった。

それが余計に気に入らなかったようだ。

家族の嫌われ者だった。

私だけが馴染めなかった。

子供の私は、親に依存して生きていく方法は無いと思っていた。逃げ場がないから、それでもここにいるしかないって。

なぜ辛いかって、


他の誰でもなく、大好きな母親だから辛いのだ。



それまで反抗していた私は、口答えしていた私は

暴力を受ける心と体の痛みに ついに心が折れた。

反抗する気はなくなった。


生きることに絶望した。


小5くらいから、鬱と統合失調症になった。

きっと、それは
私なりに必死で作り出した逃げ場だった。

全ての感情は平坦になり、その頃に撮られた写真は能面のような無表情をしていた。



その頃の私は、心の中で考える言葉、私が見るもの、口に出す言葉が全国放送されていると信じ切っていた。

そして、街や電車で私とすれ違う全員が


実は 私の存在を知っているのだと。



だから、心の中で言葉を発してはいけないと思っていた。言葉を発してしまわないように、常に何かを小声で喋るか、文章を声に出して読むか、お経を唱えていた。

笑いかける先生も、カウンセラーも
本当は全国で有名な私のことを迷惑な存在だと思っていると思った。

目の笑ってない作り笑顔のピエロみたいに見えた。

生きることが怖くて怖くて仕方なかった。

カウンセラーや周りの先生に、
虐待のことを言えば良かったのに 

そう思うかもしれない。

だけど、私は全国的に迷惑な存在だから、
そんなことを言う資格はないし

口に発することで全国にばれて、親にも聞こえていて、親にもっと暴力を受けると思った。

(  統合失調症の症状が原因だ )


そして、「カウンセラーや先生に助けを求めたという事実」が親にばれることが怖かった。

しかも、親から完全に引き離されるまでに、
親に何をされるか分からない。



それに、悲しいことに私は子供だったから。


やっぱり母親が好きだったから。

優しかった頃の母親を覚えているから

そばに居たかった。

どんな状態の母親でも離れたくなかった。



私は、小6から中2の初めまでの記憶が
すっぽり抜け落ちている。

学校で異常な行動を繰り返していたらしいが
全く覚えていない。

( 廊下で楽しそうにくるくる回転したり
ロッカーの上で寝転がって降りてこなかったり
してたらしいのだ )

鬱と統合失調症が治り、我にかえったのが
中2の終わりくらいだ。


現実を客観視できるようになってからは、

両親から私への扱いを、ひたすら我慢した。 

そして、その頃の私は母親を強く恨んでいた。

それが原動力だった。


自分を押し殺し、いい子を演じた。

生活力が身につくまでの我慢だ。そう思って。

大学に入ってすぐに無理矢理 家を出た。

一緒に暮らすことは、どうしてもできなかった。

信じることが出来ない人たちと

家族ごっこはもう限界だった。


やっと自由になれたと思った。

だけど、心理的に私はまだ母親に囚われていた。

暴力を受けて育った子供は、自傷行為をしたり、
何かに依存したり、非行に走ることがある。

私の場合は、それが「異性」だった。


異性に、親にもらえなかった愛情を求めた。

自分に価値を感じることが出来なかった。


男にだらしなく、精神的に不安定な女になった。



つまり自己肯定感の低いメンヘラ女だった。


それは、中2の後半から社会人2年目まで続いた。

体を求めてくる男たちは
その瞬間だけでも私に向き合ってくれることが
嬉しかった。

体温が愛情に思えた。

褒めてくれて、目を見てくれるだけでも
愛情に思えた。「心の穴」が満たされる気がした。

たとえ付き合っていなくても、行為をすることで
私の存在を全身で認めてくれているような気がしていた。

私は、どんな形であれ受け入れてほしかった。
認めてほしかったのだ。

親の暴力の影響は絶大だ。


暴力自体は3年くらいのことだったのに、
社会に出て2年経ってもその影響は続いた。

私は、親になることが怖い。

同じことをしてしまうのではないかと思うから。

私の母親も、家庭内暴力と共に育ったらしい。
つまり、それが母親にとっての正義だったのだ。


私が親になったら最初からカウンセリングに通う。

必ず、子供の安全地帯でいたい。

子供を裏切りたくない。


絶対的味方でいたい。


・絶対に手を挙げない

・頭ごなしに否定しない

・何点でもいい。頑張った部分を認めてあげる

・過干渉しない、支配しない。
   私は私。子供は子供。



忘れずに、覚えていたい。

ちなみに、一人暮らしが長くなったことで

今は母親との関係は良好だ。
2人でご飯に行くし、誕生日はプレゼントを贈る。

私は「母親を許している」


これは、母親のためじゃない。

自分のため。

「あいつ今ごろパフェでも食ってるよ」
っていう本の題名があるが、その通りだ。

許したら、楽になれる。

母親も、いろんな事情があったんだ。

心の病気だったのかもしれない、ストレスがあったのかもしれない、悩んで苦しかったのかもしれない。

手を挙げることは、母親にとってのしつけであり、正義だったのかもしれない。

そして、母親はきっと手を挙げたことも忘れている。私がこんなに影響を受けてしまったことも、知らない。

私は、いろんな本を読み漁って 
心理学を勉強してやっと楽になれた。

もう私には「心の穴」なんてない。

私は、私が認めて愛して許している。

どうか、こんな辛い思いをする子供が
1人でも減りますように。


そう思いながら、過去を振り返ってみた。

幼く無力だった私には

「よく頑張ったね。もう大丈夫。」

そう言ってあげたい。


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