「有鱗回廊」

 ハンドルに置かれた手は、この退屈を持て余していた。
 等間隔に配されたライトの光が、メトロノームのような単調さで車内を明滅させる。
 高速道路自動走行システム<スマートロード>は正常に作動。一般道に出るまで運転手の仕事はない。

「………………」
 それでも大黒(ダヘイ)は手持無沙汰を埋めるためハンドルに手を置き、代り映えのない静かな夜景をただ眺めていた。
 助手席に座る海鴎(ハイオウ)は、助手席という名前の役割を果たす気配など露ほども感じさせず、暢気な顔でバックミラーに視線を向けていた。
「ロランさーん。トイレとか大丈夫ですー?」
 尋ねられたロランは海鴎の方を一瞥もせず「問題ないです」と素っ気なく答えた。話しかけるな、という態度が少し寄った眉間の皺に表れている。

『――……の天気をお伝えしました。続いて、道路……』

 再び訪れた車内の静寂。騒ぐのはラジオだけだった。
 ロランはサングラスに投影された時計に目をやった。時刻は二三時半を過ぎ、既に今日という日が別れを告げる頃が近づいていた。

 その日の任務は単純なもので、九龍が新たに確保した龍脈の調査と検証だった。
 龍脈に関する調査ということもあり、老龍に所属するロランと海鴎に仕事が回ってきた。
 九龍有限公司の大黒が同行したのは、万が一襲撃を受けた際の護衛を行うためである。だが結局は何の荒事も起きることはなく、彼は運転手をやらされただけだった。
 もっとも、肝心の調査は些か厄介だった。
 原因は、かつてその龍脈を所有していた妖術師の置き土産である、呪物・呪詛の処理をしなければならなかったからだ。
 迂闊に手出しをして怪我人が出ることは組織としても避けたい。だが同時に有益なものならば持ち帰る必要がある。
 ロランと海鴎はその鑑定作業に駆り出されたわけだが、予想以上に複雑な呪詛が施された代物が多く、調査に時間がかかってしまった。想定では二〇時には完了すると見込まれていたが、実際に終わったのは二二時過ぎであった。
 単なる報告や会議だけなら電脳空間で済ませればいい。しかし、こればかりは現地に赴かなければ解決させられない。

(まあロランさんが不機嫌になるのもわかるけどね~)
 海鴎は後部座席のロランの様子を見て、考えを言葉には出さず小さく頷いて同意した。鑑定の結果、役立つものは一つもなく、ほどんど不発弾の解体作業のようなことをさせられただけだったのだ。
 仕方がないこととはいえ、予定を大きく超過した見積もりの甘さにロランは苛立っていた。
(わかっていればもう一人連れて来たものを……)
 早く夕飯を済ませ、帰宅しシャワーを浴びて眠りたい。一人になる時間が恋しい。願えば願うほど、この無駄で煩わしい現実の移動時間というものが長く感じられた。

『――……続いて、道路交通情報について……』
 白、黒。白、黒。次も当然、白、黒……。
 ライトと狭間の闇が横断歩道のように続く。続き、続き――続き、続く。
「ふわ……っあ~。眠くなってきちゃった」
 海鴎は薄く緑色に光る車の時計を確認した。
「もう二三時半過ぎか~……。そりゃあ眠くなるわけだ。大黒は大丈夫~?」
「――何?」
 あくびに紛れた中途半端な海鴎の時報。ロランの視線は反射的に自らのサングラス上の時計に向かっていた。

 23:30

 先ほどから表示が変わっていない。
 よっぽど疲れているんだな、という考えが過る。だがそれが己の中の正常性バイアスが生んだ逃避的思考だと、冷静な自分が叫んでいた。

『――……続いて、道路交通情報について……』
 白と黒が、ライトと影が、続く。
 続き、続き、続き、続き続き続き続く続き続いて続き続け続いて続いた。
『続いて、道路交通情報』23:30 続く。続く。白と黒が。――交通情』23:続いている23:30000白ライトと黒影が0000』0いて』0『続いて0000通000000情報続く00:30

 23:30が、
 白と黒の明滅が、
 交通情報が、

 続き続けている。

 強烈な違和感が皮膚を撫でた。産毛が逆立つ感覚。
 九龍の先達がよく口にする言葉がある。

 「違和感は無意識の警告」

 普通ならば「まさか」と一笑に付し切り捨てる考えも、この組織では――それがどれほど荒唐無稽でデタラメな可能性であっても――起こり得る現実的な問題への対処になるのだ。

 即座に端末のネットワークを確認する。表示の上ではオンラインとなっている。
 動画サイトへと移動し、適当な配信を見ようと試みる。
『z。f闝さ__?_ああヴ%?ぇ勢>>ぱえr・叡』
 人に似せようとしながらも決定的に人の本質が欠落した紛い物が、ブロックノイズのキャンバスの上でぬるりと身を捩らせている。口を模して失敗した七角形の穴から、声とも咀嚼とも付かない出来損ないの言葉が漏れ出る。
(クソッ、完全に切り離されている!)
 危険度は不明。だが間違いなく状況は最悪だった。

「チぃッ――大黒、海鴎!!」
 ロランが叫ぶ。普段の作った丁寧さが完全に剥がれ落ちているが、取り繕っている暇も余裕もない程に逼迫していた。
「うぇええっ!? 急に怒鳴らないでくださいよ~」
 未だ危機に気づいていない海鴎はあくまでマイペースに答えた。隣の大黒もバックミラー越しに、訝しげな視線を投げかけている。
「寝ぼけてる場合じゃないですよ……俺たちは今、何者かに攻撃を受けている……!!」
 攻撃。
 その剣呑な一言を受け、二人もまた即座に臨戦態勢へと切り替わった。
「攻撃の根拠はあるんですか?」
 海鴎は懐から肉池を取り出すと蓋をスライドさせ指に朱肉を付けた。
 大黒も備え付けのピストルに手を伸ばし周囲を最大限警戒しつつ、運転を自動走行からマニュアルへと切り替えた。
「体感で一〇分以上は前から時間が経過していない。ラジオの交通情報も同じ部分ばかりを繰り返しているし、ネットもグリッチ化してる。これでも根拠は足りませんか?」
 ロランは懐の使役用の呪符に意識を集中させる。刻まれた言葉の持つ霊的回路に気が巡り、術式が励起する。
「恐らくこの状況……壺中天化が起きている」
 高位の妖術師、あるいは気の影響を受け魂が変質した黒血子(ヘイシース)が構築する、気によって隔絶された歪曲空間。
 己にとって戦略的に・環境的に都合のいい、究極の内向的領域――それこそが、壺中天である。
「ロランさん、どうにかできますか? 俺じゃさすがに破れないですよ」
 言葉の上では弱気だが、話をしている間も着々と車内に呪詛文字を書き記し、敵からの攻撃に備え結界を構築していた。
「いや、俺も結界破りは専門じゃないですね……こうなったら、組織に連絡して救援要請するしかなさそうだ」
「嫌だなぁ、ボケないでくださいよ。自分でネットが死んでるって言ったじゃないですか~」
 海鴎の気の抜けた苦笑に思わず怒鳴って反論しそうになる。しかしロランは術式への集中を続けながら、努めて冷静に答えた。
「ボケてませんよ、君と違ってね。そうか、まだ知らないんですね。なら手早く説明――」

『続続いて道路交通ぅーッーーッーーーッ――――hisssssss嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶』

 吐息が、遠く背後から漏れ出る。
 その音は不揃いだった。細かく生暖かい風に似た音が、いくつも折り重なっているようだった。
 シュウシュウ、シュウシュウという無数の声。
 車の後方の闇に、夜よりも濃い暗黒の塊が蠢いていた。

「!!」
「げ……」
 存在を同時に目撃したロランと海鴎が固まる。
 怪異が姿を現した以上、悠長なことはしてられない。事態は一刻を争う。
「いいか海鴎!! まず車載電話を取って、デタラメにナンバーを押せ!! 絶対に繋がらない数……三〇桁でいい。それで待て……それで必ず窮奇(キュウキ)様に……”繋がる”」
 ロランの叫びに急かされた海鴎は訳も分からず、しかし言う通りに数字をひたすら叩いた。

 468456432123857885312239435345………………”掴まれた”。
 ノイズ、
    ノイズ、
 ノイズ。

 録音された<この電ここの 電電電この電話 は”コレクトコール”ででで ですでで です>女の声が。

 それから――
 れ      ――2,483,496頭の鯨の背骨が一斉に軋む音楽。
 か                ――朦朧とした襤褸の神への賛歌。
 ら    ――色褪せた手遊び歌。   ――理路整然とした嗚咽。
 |         ――月の裏側に降る雨音。            |            ――諦めに塗れた産声。                         ――連結口蓋を吹き鳴らす旋律。             ――退色樹形心透虫の貴族たちの衣擦れ。 
       ――煮沸消毒されたエンベロープ内の嘆き。      |
   ――双子の境界線を塗りつぶす時の肉色の嬌笑。        |         ――視神経が摩耗する際に発する囁き。      ら                                 か
                                 れ                            ――らかれそ

 夢を見ている時の絶対的な認識。
 聞いたことがないのに、聞きようがないのに、その正体を理解してしまえる超現実の感覚を伴った音が電話口から溢れ出した。
 海鴎は正気をヤスリ掛けされる錯覚に襲われていた。感情の名は恐怖だった。
 一瞬と永遠を行き来する振り子の時間認識を止めたのは、電話口からの声だった。

『――こちら窮奇のお悩み電話相談室です。現在の時間、美容と健康のためのおやすみタイムになっており、電話に出ることができません。ごめんね~~ゆるちてね~~~~』

「えっ、バカなの?」
 緊張感を瓦解させる上司の声に、海鴎は反射的な罵声を投げかけていた。
『上司に向かってバカとはなんだバカとは!! 非常識な時間に電話かけてきたそっちの方がよっぽどバカでしょー!? バーカバーカ!! お前の上司、いーけーめーん!!』
 子供のような反応に面食らいながらも、確かにこれはいつもの――いつもの心底どうしようもない――上司、呪術部門<老龍>のトップ、四凶の座に就く”窮奇”に違いなかった。
「俺が代わる! スピーカーに切り替えろ!」
「はい、はい!! 人使いも言葉も荒いなぁ、もう……」
 言われた通りに切り替えると、会話の続きをロランが引き取った。
「先生、緊急事態です」
『何!? それは大変だ!! 今すぐ警察と消防と教育委員会と葬儀屋に連絡しなければ!!』
 ふざけてる場合かタコ足ワカメヘアー、という罵倒を必死に飲み込みながら、ロランは続ける。
「おふざけに付き合っている場合じゃないんです。今――」
『――海天高速道路上、唐突に時間及び空間を隔離された状況で、背面には不定形に動くはっきりとしない敵影が迫っていて、それでどうしたって?』
 これだ。
 これだから、四凶は嫌なのだ――ロランは心底うんざりし、同時にほんの一縷の安堵感を得ていた。そして、安心した自分の矮小さに嫌気がさした。
 呪術部門のトップというのは、つまり化け物集団の中でも究極に人を超越し理解の及ばぬ領域に身を置いている者である。
 その証明の一つがこの全てを見通す眼だ。
 いや、それ以前にこの電話。老龍の緊急連絡用のホットライン。例え”電話が存在しなくても”かけられると話に聞いている。こんな呪術はロランも海鴎も、おそらく他の老龍の連中でさえ知らない代物だろう。
 もっとも相応の代償を窮奇自身が支払わねばならないため、使用は緊急時に限られるのだが。
「……この状況、十中八九”壺中天化”しているかと」
『だろうね。それで、敵は実体化してる?』
 相手が霊的なままなのか、受肉し実体化しているのか。それにより対応は異なる。
 厄介なのは、ロランや海鴎のような老龍の人間にとって、超常の存在が”視える”ことは当たり前である。同時にそれは、果たして己が霊体と実体のどちらを見ているのか、判断に困る事態を招く。
(となるとリトマス試験紙に使えるのは――)
「大黒!! 車の後ろに何が見える!?」
 運転中の大黒は冷静にバックミラーを見た。
「……黒くうねる塊みたいなものが見える」
『大黒くんに見えてるってことは実体化してるね』
「ですね」

 その時――ガン、という硬い衝撃音、そして振動が車を襲う。

「――ッ!?」
 シュウシュウという音の先頭集団が車両のトランクに取りつく――いや、咬みつく。
 近くで見たその姿は、無数の蛇のようだった。
 幸い海鴎の結界により破損と衝撃は大幅に低減していた。だがどれほどの間持ちこたえられるか、それを実験してみる気など三人にはなかった。

「――起きろ、”ジョン”ッ!!」

 ロランが叫んだ。呪符が熱を帯びる。
 瞬間、トランクが跳ね上がり、敵が大きく吹き飛ぶ。
 トランクから飛び出したのは大柄な安全靴。
 膝、太腿と続き、中華風ローブに包まれた男がハンドスプリングで跳躍――ロランの使役するキョンシー・ジョンがルーフに移り身構えた。
「ジョンは俺を守れ。そして――”ジェーン”ッ!!」
 ロランの手中で二枚目の呪符が起動する。
 新たに飛び掛かろうとした蛇の一匹が空中で引き裂かれ落ち、地面の影に溶けてゆく。
 残された虚空には鋭い爪。台座は病的な白さの手。
 トランクの奥からクルクルと宙返りをして、ゴシック調の喪服姿をした死美人が姿を現す。
「お前は車に近づく敵を蹴散らせ」
 ジェーンと呼ばれた女キョンシーは微笑を浮かべ、トランクの縁に優雅に立った。
「彼女が踊るなら、ダンスフロアが要りますね~」
 海鴎がぶつぶつと囁きながら指を震わせる。指先から生じた文字が窓の隙間から外へと逃げ出すと、トランクの後ろに密集し、超常の足場を組み上げて行く。
 密集した文字の舞台上にジェーンが立つ。気の力によって固定された文字は、多少のことでは揺るがない強度を持っていた。

「……それで先生、援軍は期待できるんですか」
 迫りくる敵に意識を割きながら、窮奇へと尋ねた。次から次へと襲い掛かる黒い蛇は、全てジェーンに迎撃されている。
『問題があってね。一つは異界門を開いて直接送り込もうにも、ただでさえ歪んでいる壺中天の中を車で移動してるっていう状況のせいで、座標が確定できないんだ。下手に送っても敵の真っただ中じゃ援軍の意味がない――』
 にちゃ、と粘ついた音がした、気がした。
 一拍置いて、
『もう一つは敵の全容がわからないっていうところだね。――ぅるぁ――もし後ろに迫っている奴が全てならいいけれど、もっと――んぅいのぅ――規模がでかい相手だとすると中々に厄介だ。迂闊に煙霧あたりを――ぅ、ぅ、みぁみゃぁ――送り出して燃やしてみたら、結果領域全てを巻き込んで炎上、君らも丸焦げじゃ笑い話だろ?――けぇ、っ、ぬぉぅ――』
「何一つ笑えないですね」
 窮奇の背後から断続的に異音が漏れ始めていた。
『異界門を開いて君らだ――っのぐす!! べぷぃぜ――け逃がすっていう手も考えたけど、開けっ放しにすると――っら、ん! ぇぬぐょ――ああもう五月蠅くなってきたぞ』
(まずい……”コレクトコール”の代償が大きくなってきた……!!)
『ちょっと――ぶぶ――手一杯――び――になってきたから手短に――ぬめぅぐ――言うね。駆け付けられそうなのを一人送――げっぅげっげっ――るよ。あとお役――んええええええええ――立ちアイテ』

 ノイズ。
 沈黙。

「切れちゃった……。え!? 途中からのあの気持ち悪い音なんなの!?」
「まともな通信じゃないですからね……通信で開いたゲートから”ツケ”が窮奇様の方に流れ――それどころじゃないッ!!」
 背後の影の塊に変化が生じていた。
 小さな影が互いを巻き込むように捻じれると、次第に一本の太い綱と化して車に迫る。
「ちょっとちょっと待って……あのサイズに体当たりされたら、結界持たないかも!!」
(クソッ、まずいぞ……!! ジェーンなら時間さえかければ倒せるかもしれないが、突っ込んでくるアレを叩き落とすのは無理だ! こうなったらジョンに俺だけ脱出させて立て直しを――)
「海鴎、ハンドル頼む」
「え?」
 言うが早いか大黒はグローブボックスを開け、中に入っていたグレネードを取り出すと、運転席の扉を開いて車上に飛び移った。運転手の不在に車が揺れ始めるがそれでも大黒は動じずジョンの隣に立ち上がる。ジョンは空気を読んだのか、ちょっとだけ隣にズレた。
「待ってよ!! 突然すぎ……わ、わ、わ!」
 海鴎は助手席から必死にハンドルを握りバランスを取る。焦る彼の声を耳にしても、大黒は悪びれる様子もなく淡々と敵を見据える。
「おい大黒、何を」
 口でピンを引き抜く。
 全身の筋肉が柔軟にしなる。エースピッチャーのような勢いで放たれたグレネードが一直線に加速する。
 迫りくる大蛇の開け放たれた口中に吸い込まれ――爆発。
 一瞬の轟音と閃光の後、影が――黒い肉片が宙へと巻き上がり、びちゃびちゃという雨音を立てながら道路に降り注いだ。
「実体化してるなら、効果あるだろ」
 大黒はピンを路上に吐き捨てながら、下にいる二人に対して平然と言ってのけた。
「いや……まだだ!!」
「!!」
 千切れた部分を補うように蛇たちが噴出し、繋ぎ、同化し、再び大蛇が首をもたげる。
「嘶ィ――――――――ッ!!」
 大黒がピストルに持ち替え引金に力を籠める。立て続けに発射される弾丸は蛇の体に吸い込まれていく。大蛇の進軍に影響を与えることはできない。
 無駄と判断しピストルを放り投げると、ジェーンの立つ文字の足場に立って拳を握り待ち構えた。呪術が施され、生身だろうと化け物だろうと殴り飛ばせる特殊な砂鉄入りのグローブに力を込める。
 果たしてどれほどの効果があるかは疑問だ。勝機を見出すことはできない。それでも大黒は動じない。戦いも死の危険も、今更何ら騒ぎ立てるようなことではない。
「ああもう無謀すぎるよ……!!」
 海鴎が親指を噛み切る。滲んだ鮮血が文字となって大黒の元へと駆け付け、彼の拳を取り囲む。熱が全身に広がり、力が漲る。
「ないよりはマシだから!!」
 焼け石に水だとは理解していても、足掻くことを止められるほど諦めがいいわけではない。やれることは全てやる。

 迫る。
 視界が黒で埋まる。
 大蛇の息が触れる。

 ――空間が罅割れた。

「ハ、ハ、ハ、ハ、HAーーーーッ!!」
 軽薄な笑い声がこだまする。
 大蛇の首に亀裂が入り、首が落下して路面に弾けた。

「お待ちどうSummer、へなちょこモヤシっ子!! このクアンくんが来たからには一騎当千・商売繁盛・ノープロブレム!! 安心して永眠するデース!!」
 金髪の青年が場違いな明るさでポーズを決め、敵の背中に着地した。
「クアン!!」
(よりにもよってこの気分屋が援軍とは……)
 ロランは助かったことへの安堵以上の強い不安を感じていた。
「いやー助かったよクアンくーん!!」
 一方の海鴎は素直に闖入者を歓迎し手を振る。ハチャメチャな性格だが、高い実力を持つことを知っているからだ。
「気を付けろ。そいつ、再生するぞ」
 大黒はあくまで無感動に事実だけを突きつけた。
「マ? うわっ気持ち悪っ」
 足元で結合を始める蛇の群体に対し、露骨な嫌悪を向ける。
「ならひたすら殺し続ければ解決デース!! 素晴らしき脳筋ソリューション!!」
 クアンの両腕の先で結晶が剣の形を成し、ライトを照り返す。
 迷いなく振り下ろされた切っ先が黒い肉を削ぎ落す。
 だが蛇は切り刻まれながらもなお動きを止めず、再生と移動を続けながら車に追い縋る。その速度は決して緩まることがない。
「フーン? あ、そういう態度取っちゃうネー? なら我慢比べデース!!」
 幾度もクアンの刃が弧を描き、着実に肉体を、生命を損傷しているはずだ。そのはずなのに、一向に死ぬ気配がない。
「やはり……あれは端末に過ぎないのか?」
 ロランが呟く。
「とすると本体が別にある?」
「だとして、どう見つけて仕留めるか……」
「あ、思い出した!! これタコボスからお届け物ネー!! ヘイ大黒くんパース!!」
 タイミングを計ったかのように、クアンが戦いながら器用にアタッシュケースを投げ飛ばし、大黒が何とかキャッチした。
「……丁重に扱え」
 そのまま窓から車内のロランに渡す。
 受け取ったアタッシュケースを開くと、そこには奇妙なアイテムとキャラクターもののメモが封入されていた。

『かわいい部下へ
 お元気ですか。蛇の怪異に襲われたりしていませんか。している気がします。
 これを読んでいる頃、きっとあなたたちは敵に追い詰められているのではないかと思います。
 しかも対抗するも打開策がなく途方に暮れているんじゃないかなという気がします。
 さらにさらに、そろそろあれが敵本体じゃないことに気が付いた頃のような気がしてなりません。
 なのでこれを届けさせました。私は親切なので。
 これは<医師の羅針盤>と呼ばれる呪物です。
 元医師で後に暗殺者となったろくでもない男が遺したものです。
 気を込めると稼働し、ターゲットに選んだ相手の心臓を常に指し示すサイコな代物です。
 ただし位置を指し示すだけで特に殺傷能力はないので、その辺はみんなで相談してどうにかしてください。
 くれぐれもお体に気を付けてお過ごしください。
 ――みんなの大好きな愛され系ボス・窮奇より』

 大半の無駄な文章を無視し、肝心の部分だけ拾い読みをすると、ロランは即座に<医師の羅針盤>を起動した。
 地球儀に似た球体型のフレーム内に、黒く汚れたメスらしき鋭利な金属が浮かんでいる。
「ターゲッティングの方法が記載されてないということは、思念でいいのか?」
 試しに黒い蛇に意識を向ける。
 すると――メスはくるりと回りだし、突然真下を指し示した。
「真下だと? ……まさか」
 ロランの中で嫌な想像が巡る。予想通りだとするならば、最大の問題はどうそこに辿り着くかになってしまう。
 まずは確認しなければならない。
「海鴎! グレネードを大黒に!」
「待って待って……はい、そっちのが近いから渡してくださいよ~」
「手が塞がってるのが見てわからないのか!?」
「こっちも運転中なのにわがままだな~……おーい、大黒くーん」
 マイペースな態度を取りながらルーフをガンガンと叩く。気が付いた大黒が覗き込む。
「はいこれ。ロランさんが渡せって」
「大黒! それでどこでもいいから、道路を狙って破壊しろ!!」
 コクリと頷くとルーフへ引き上げる。そして近くの道路を狙い、投げ込んだ。
 爆発。
 道路が抉れる。そう、抉れたのだ。
 石片を撒き散らすことなく”抉れた”。そして”血が噴き出した”。

 異変が起きた。
「嘶嘶嘶嘶嘶嘶嘶ィ―――――――ッ!!!!」
 これまで止まらなかった大蛇が急に動きを止め、そのまま形を失い崩れ去った。
「ワッツ!? ナニコレミラクル!?」
 クアンは突然の出来事に戸惑いつつも、ジェーンの隣まで退避する。しれっと彼女の肩に手を回すと容赦なく引っ掻かれた。この戦いで初の負傷者となった。
「やはりか……」
「これってまさか……うわわ!?」
 地面が大きく揺れた。危うくガードレールにぶつかりそうになったところを何とか堪える。
「! 道路が……波打っている」
 上から見ていた大黒がまず変化に気が付いた。
 灰色の路面が徐々に黒色へと変化する。
 その表面に丸みのある菱形の模様が浮かびあがる――これは、鱗だ。
 先ほどまでの敵は、”これ”に比べれば大蛇とは程遠いミミズのようなものだった。そう認識を改めざるを得なかった。
「アレは……Dragon?」

 ――真の大蛇が脈動する。

(クソッ、クソッ、クソッ!! 冗談じゃないぞ……ッ!!)
 ロランが心の中で毒づく。
 今日の仕事はなんだ? つまらない呪物鑑定だったはずだ。
 それが――どうして聖ジョージの真似事をしなければならない?
 自己保身が第一。こういう荒事は自分の領分じゃない。
 海鴎はサポートが中心。大黒はあくまで人間相手が本職。頼りになりそうなのはクアンだけ。
 だがこの状況。誰も死なずにどう切り抜けろと言うんだ?
 クアンがなんとか敵の中枢部に到達し心臓を破壊してくれれば、あるいは助かるやもしれない。
 だが。だがしかし、だ。
 その間にも大蛇は俺たちを殺そうとするだろう。この巨体だ。気まぐれにくしゃみの一つもしてみれば、誰か一人くらい道路の外へと吹き飛ばされ、あっさりと地面の染みになるだろう。
 その誰かが自分である可能性がある。冗談じゃない。
 ワンペア分の手札で、どうやってストレートフラッシュに勝てばいいというのだ。
 答えは一つ。サレンダー。だがそんな結末は受け入れられない。

 道路に終わりが見えた。
 遥か向こうの闇の中、天を衝く巨大な頭が持ち上がる。夜の化身のようだった。
(嫌だ!! こんなところで死ぬつもりはない!!)
 必死に周囲を見回す。
 何か。何でもいい。
 何か。誰か。

 そして、気が付いた。

 00:24

(時間が――動いている)

 遠くから地鳴りのような、低く、深く、単調で複雑な音が響く。
 それは声だった。
 呪術師の声だった。
 <老龍>の呪術師たちが、一斉に呪術を行使する、詠唱だった。

 封鎖 せよ

 音を伴わない声が、耳朶をすり抜け脳に触れた。
 無数の呪符が宙を舞い、大蛇を取り囲む。
 空気に一瞬の波紋が浮かんだ。
 空間が歪んだ。
 高速道路は再び現世から切り離された――今度は大蛇ではなく、老龍の呪術師たちによって。

 入口を 開け

 正気と狂気を隔てる薄皮に切れ目が入り、カーテンのようにはためいた。
 大蛇がそちらを睨んだ。

「――これはこれは。丁度、夜食が欲しいところだったんだ」

 龍紋外套を纏った眼帯の男が笑った。
 口を開いた。
 男の前でも”何か”が開いた。
 空間にぷつぷつと、その”何か”が増殖していく。
 赤く光るそれは牙だった。
 男が大きく口を開いた。
 牙が増殖していく。
 大蛇の頭の幅を超えた。
 男が歯を噛み合わせた。
 赤い牙が重なり合った。

 大蛇の首が消えた。

「クアン・クー。お前なら止めを刺せるだろう? お膳立てはした」
 大蛇は首を失ってなお姿勢を保っていた。消え失せた首の先からは無数の蛇が生じ、頭を再構築しようと試みていた。
「ロラン。指揮を」
 遠くで眼帯の男が――組織の実質上のボス、饕餮(トウテツ)が命じた。
「――ッ! ら……羅針盤の示す通り、敵の尻尾と頭の丁度中間、つまりここの真下に心臓部があります」
 混乱、動揺。同時に安心感。それに、屈辱。
 全てを任務という仮面の下に押し込め、ロランは与えられた役割を果たすべく動く。
「敵は巨大で硬いが、破壊は可能です。ただ可能なのはクアン。君だけです。海鴎が防御に力を割けば、大蛇の体内を無事に進み、心臓を破壊できるはずです」
 クアンが片方だけ眉を上げておどけつつ首肯する。
「……やれやれ。ま、ボスの命令ですし? 何よりワタシはパーフェクト最強ですからネー!!」
 大蛇を睨むその瞳に、ほんの一瞬の曇りと老いた哀しみを見た――気がした。
「早く済ませて帰ろう~……やるよ」
 海鴎は運転の必要がなくなった車を降りると、自由になった両手で呪言を記してゆく。言葉は力となり、クアンの肉体を包む結界となった。
 クアンが勢いよく飛び出す。傷口から大蛇の体内へと侵入し、剣によって切り進む。

(……これはもう、戦いじゃない。ただの解体作業だ……)

 ”戦い”はもう終わっていた。饕餮が大蛇の首を戯れに食い千切った段階で。
 己が死を覚悟し、死の恐怖に怯えるほどの怪物を相手にして――片手間に、行動不能に追いやった。

 クアンが無事に心臓を破壊する。喜ぶべきことなのだろう。
 だがロランの気持ちは既に離れていた。ただただ、独りになりたかった。
 大蛇は肉体の制御を失って倒れ込もうとする。ロランはジェーンを引き連れつつ、自らをジョンに抱えさせ着地し、久しぶりの地上に戻ってきた。
「災難だったな。報告は後日でいい。帰ってゆっくり休んでくれ」
 着地したロランを前に、饕餮が微笑みかけた。人のフリが上手な怪物だな、と彼は思った。
「送らせるよ。お疲れ様」
「ありがとうございます。……失礼します」
 頭を下げると、二体のキョンシーと共に、ロランは車中に消えた。

 続けて、頭上から一塊の影が器用に勢いを殺しながら降りてきた。
「――……ぉぉぉおお!! ダイナミック帰還、大成功デース!!」
 騒ぐクアン。その小脇に抱えられ、海鴎と大黒も無事地上に降りてきた。
「ボス! お手を煩わせてしまいました……」
「ボス!! 特別ボーナスプリーズ、ギブミー!!」
「クアン、大活躍だったな。手当は付けるよ。海鴎も無事で何よりだ。二人とも、今日のところはゆっくり休んでくれ」
 二人が車に乗せられ去るのを見届けると、饕餮は大黒へと向き直った。
「おかえり、大黒」
「……戻りました。ありがとうございました」
 大黒が頭を下げる。それを見て饕餮が笑った。
「一日出張がとんだことになったな」
「……すみません」
「いや、いいさ。それより」
 肩を力強く叩く。
「どうせ夕飯喰い損ねただろう? 俺も口直しがしたい」
 さっきあんな下手物を食べたのによく食欲が湧くな、と大黒は思った。
「食いではあったんだが、如何せん味が悪い。ほとんど石の味だったんだよ」
「……そうですか」
「そうだ。景気づけに蛇料理でも食うか? 自分を食おうとした相手を食えば、少しは溜飲が下がるだろ。ははは」
「勘弁してください……」
 休息がもう少し遠ざかった事実を前に、大黒は疲労混じりの溜息を吐き出した。

 熱いシャワーが汗を洗い流してゆく。だが心にこびり付いた油脂のような不快感は残り続けていた。
 目を閉じる。
 水滴が顔を伝い顎から落ちてゆく――ぬるりとした過去の錯覚に目を開く。
 違う。血じゃない。これは違う。

 目を閉じる。
 暗闇だ。油膜のように移り変わる。
 夜に輪郭が浮かび切り抜かれる。漆黒は蛇の形をしていた。
 闇が罅割れ、牙を向く。

 思わず見上げる。
 電球の光が瞼の色に溶ける。
 光は闇を飲んだ。光は赤く輝く闇だった。
 蛇をも喰らう大顎が嗤っていた。
 赤い色が広がっていく。

 シャワーの熱に浮かされる。記憶まで湯気に煙る。
 赤い色は死の色だった。
 跳ねる――父母の足が。血が。
 死者に殺される。血。つながり。あの日、流れたもの。
 赤と黒に染まった思い出。家族の終焉の記憶。
 死。つい先刻まで目の前に広がっていた黒い蛇。
 死。暗がりで手招く者。俺の足を掴もうとする。
 死ぬ。いつか死ぬ。明日かもしれない。
 死ぬ。俺が? 嫌だ。違う。
 嫌だ。
 違う。
 違う!

「違うッ!!」

 シャワーが打ち付ける豪雨に似た音が、次第に意識を引き戻す。
 蛇口を捻り、タオルで体を軽く拭いて部屋へと戻った。
 ソファに倒れるように座り込む。疲れていた。
 手足が重たい。軽い頭痛もする。術の使い過ぎの影響か、あるいは過度のストレスか。
 疲労と眠気が反比例している。肉体が求めているはずなのに眠れる気がしない。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一本分を飲み干すと、不意に足が動いていた。
 端末のスリープを解除し、秘匿されたファイルを開く。

 <楼蘭計画:无精式・改善案>

 四凶。仙人。黒血子。
 自分とは違う怪物たち。真っ当な生命を嘲笑う連中。
 呪術によって人よりも力を得た今なお、そんな努力など路傍の石ころ程度にしか思えないほど、連中は規格外だ。
 現にロランは手持ちのカードを切ってなお、大蛇の黒血子に殺されるところだった。
 あの瞬間。
 大蛇が目覚めた瞬間――俺は完全に縋ったのだ。他人に。
 非力な子供のような愚かさで、神に祈るだけの無力な恥知らずになり下がったのだ。
 脱出不能の空間を突き抜けて介入し、全てを見透かす窮奇。
 遊び半分で蛇の頭を食い千切った饕餮。
 周囲に死を振り撒きながら、しかし最も己の死から遠い場所に身を置く連中が――おぞましくも羨ましい。
 このまま死に怯え誰かの助けを請い、生殺与奪の権利を他人の掌に預け続ける生き方など御免だ。
「計画を……急ごう……」
 時計を見る。既に二時半を回っていた。
 不意に高速道路の止まった時間が羨ましいなと思い、口の端だけで笑ってしまった。


エピローグ:調査報告

 小さな部屋だった。古めかしく質素ながら、しかし机も椅子も歴史ある名品であった。
 部屋に人影は二つ。
「それで? お前がわざわざということは、今度はどれだけ厄介な事態なんだ?」
 饕餮が不機嫌そうに尋ねた。
「そゆこと。まあ報告書を特別に読んであげるからしっかりお聞きなさい」
 一方の窮奇は愉快なことでもあるかのように、ひらひらと手に持ったファイルを振ると、人差し指を立てた。
「第一に、黒血子は自然発生したものではなかった。龍脈の痕跡をチェックしたけど、あそこに開いていた様子はなかった。人為的に作られたってわけだ」
 中指を立て、報告を続ける。
「第二に……あの黒血子のベースになったのは高速道路、そして蛇」
「わかりきったことはいい」
 冷たく言い放つ。
「も~、急・か・さ・な・い・の! その蛇が肝心。蛇の種類はクスシヘビ。原産はヨーロッパ。アジアにも生息してはいるけど、少なくともこの辺りでちょちょーっと手に入る蛇じゃない」
 窮奇は別のファイルを取り出すと、饕餮に手渡した。
「一応鬼龍に調べさせたけどやっぱりここ半年以内に入荷された記録はないし、どっかの蛇マニアが勝手に持ち込んだ様子もない。何より霊視の結果、チェコで捕獲されそのまま連れてこられたことが判明してる」
 渡された資料に記された図形。饕餮がこの図形を見るのは初めてではなかった。
「今回の一件、どうもうちを直接狙ったわけではなさそうだ。そもそもの目的は……あの蛇を竜にまで成長させることだったらしい。口を開けて待っていれば餌の方からホイホイやって来るわけだから、餌場としては効率的だね。ただそこに偶然、ロランくんたちが引っかかっちゃったのが運の尽き。夢半ばでお亡くなりっていうお粗末な展開になっちゃったわけだけどねー」
「人造竜……奴ら、本格的に動き出しているのか。この一件、特にクアンに知られないようしておけ。また大暴れされても面倒だ」
 ファイルに目を落とす。
 現場に残されていたのは、有翼の竜の文様。
「もし来るならば……叩き潰してやるぞ――<ドラグネット>」


<了>

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