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ゴミ拾い ~世界をもっとよくする活動~

どうも、ナカです。

『私』は、どこまでが私なのだろうか?

「まーた難しいことを言おうとして、どうせ墓穴を掘るんだからやめときゃ良いのに。私は、頭のてっぺんから足の爪の先までだよ。当たり前じゃん。」

そうか、そうかもしれない。

では、髪の毛は切られた瞬間に私でなくなるのか。
爪もそうか?では切られていない爪に挟まっている垢は私でないか?

反対に拡張する側はどうか。
『私』を「私に影響を与えるもの」と捉えるとどうか。
耳から1cm離れた場所を飛び回る蚊は私ではない。が、私自身の存在以上に気になる。
私のデスクに置かれたドリアンは?

「いや、そういう五感に訴えるやつは卑怯でしょ!」
そういう声があるかもしれない。

では、アナタの背後10mに立つ、井戸から這い上がってきた白い洋服を着た女性(仮の呼称として「貞子」とする)が、もしいたらどうか。

「長年、井戸の中に居たら 、結構水臭いんじゃね?」
そういう指摘は一旦棄却することにする。

では、別の例として、近所の普段子どもがよく遊ぶ公園・道路に落ちているゴミは?

ナカ『うわっ!これも「私」じゃないか!』

非常に前置きが長くなりましたが、ということで、
休みの日の朝、近所のゴミ拾い活動を始めました。

子ども3人+妻がひたすら火ばさみで路傍のゴミを拾い上げ、ナカの持つ袋へポイポイ入れていきます。

やっぱり目立つのは「タバコ」

道端に捨てていくのは、ごく一部の方々だと思いますが、こういうところがアルト愛煙家全体のイメージも下がってしまいます。
私はノンスモーカーですが、頑張れ愛煙家!

次に目立つのは「缶・ペットボトル」

特にアルコール系は多い!
頑張れ愛飲家!

その他、変わり種は「サンダル」とか。

いや、どうやって帰宅したん!?

「ゴミを見れば、人々の生活が分かる」と言った人が居たかどうか知りませんが、ある種、そうかもしれません。

以下、45分間の成果。
多過ぎていつも途中から、大きなゴミだけに注力しても、コレ。

子ども達とゴミ拾いをしていると、散歩している方々から
「あらー、エライね。ありがとー。」
と声を掛けてもらえて有り難いですが、少々違和感。

「エライねー。」
というセリフの中には
「自分のことでなく、やらなくて良いことなのにわざわざやっている」
というニュアンスを感じてしまうからです。

まぁ、確かに、ゴミを投げ捨てる人が拾えば良い話なんだけど、そんなことを言っていても、自分の周りの環境が汚いことには変わらないし、子どもが遊んでいる時に間違って触ってしまうかもしれない。

もっと話を膨らますと、ゴミが常態化されると
『んー、この公園・道路、大切に使われてないな。皆さんの税金をわざわざ使って整備したけど、やらない方が良かったのかも。』
なんてことにも繋がりかねない。

拾っても拾っても、翌朝にはどこからともなくゴミが湧き出しているんだけれども、身近な手の届くところから一歩ずつ。
これも私と行政の一つの関わり方かもしれないし、私が影響を受ける世界が少しでも良い側に寄っていくとイイな。

ー完ー

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