プロセスと再現性を重視する知性主義

どうも、ナカです。

前報では、妻の予想外の反応に、思わず感情的になってしまった。
これは合理を重んじ、科学の時代に生きる私にとってあるまじき姿勢であり、真摯に反省し、妻に通じる愛の囁き方をまた研究開発していきたい所存だ。

大体私は、感情+合理であれば良いのだが、感情だけが圧倒的に先行しているのを目の当たりにすると、
「ははーん、この人、ロジックが弱いから感情と勢いで乗り切ろうとしているな。」
と感じてしまうタチである。

そういう意味でも、往年の「ビートたけしのテレビタックル」みたいな、結論・方針を決めたりしないのは百歩譲ったとしても、お互いが議論をしているように見せて相手の発言を大きな声で封じる討論会は嫌いだ。

また、人を説得する根拠を権威に求めてしまう議論の進め方も、同様に疑わしいと思ってしまう。
大学の講義で、こんな言い方をする教授らが、稀に居た↓
「ハンチントンは○○と言いました。ですから○○は正しいのです。」
ハンチントンの部分を、丸山眞男にしても、アリストテレスにしても、総理大臣にしても、例は何でも良いのだが、こういう論調を目にすると、
『誰々が言ったからといって、どないやねん!!』
と激しくエセ関西弁で突っ込みたくなってしまう。

合理と知性主義の時代に生きる私たちにとってみれば、物事の正当性は、正しいプロセスと再現性によって担保されるのではないだろうか。
例えば工業製品の生産をとってみても、正しいプロセスの積み重ねであれば製品の性能・品質はある一定レベルを保っているであろうから、1000個に一つなどの抜き取り検査という手法が成り立っているのではないか。
ある手順に沿って実施しているのに、こちらの研究所では結果が出るのに、他では異なる結果になる、などという事象は、有ってはならないのだ・・・!

・・・

・・・

長男「ねぇねぇ、お父さんの焼いたお好み焼き(当然、広島風だ)って、何で1枚目は美味しかったのに、2枚目は焦げてたり、そんなに出来上がりがバラバラなのー?」

ぐぬぬ・・・。

随筆:再現性を得るには、何だかんだスキルも必要

ー完ー

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