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ケネー→マルクス→MMT。グラフ表現の系譜

 「MMTとは何か」という話では、かつてリッキーさん曰く

クナップKnapp、ケインズKeynes、ラーナーLernerに並ぶ
MMTの「四聖人」の一人にあたることになる。この4人が、
MMTの中核テーゼを作り出した先行者と位置付けられているわけで、
この中核的なテーゼの上に、ミンスキーMinskyやゴドリーGodley、
バジル・ムーアBasil Moor、オギュスト・グラジアニAugusto
Grazianiといった人々の
現代的な理論的分析やら方法論やらが乗っかって
こうしたものを共通の土台としたうえで、
さらに各国中央銀行の決済業務レポートやら実務者の報告、
さらにはアルゼンチンやらイラクやらにおける
Job Guarantee Programプロジェクトの成果などを踏まえて、
現在の議論が積みあがって出来上がったのが
現在のMMTということになるだろうかね。

断章、特に経済的なテーマ、Mitchell-Innes "What is Money ?" のお話①

 でもそうだろうか?

 もちろんこれはこれで一つのMMT観ではあるし、かくいう自分もこうしたMMT観をガイドにして過去の聖者たちのテキストを遡ってきたわけだけれども、それとは「真逆」の把握を試みているのが本シリーズの路線(マルクス-MMT)ということになる。

 まだうまく言えないのだけれどもあえて言えば「始原から考えんとする」「論理的、科学的な体系」という感じというか。 

 ところで宇野弘蔵は次のように書いているそうだ(ヘッドホンくんありがとう)。

『資本論』が「商品」から始まって「諸階級」に終る全体系を完成するとき,個々の国々の,またそれぞれの資本主義的発展の段階を捨象して,資本主義社会の理論的世界像をつくり上げるのは,あたかも自然科学における実験装置をもって純粋の自然的過程をつくるのに似ている。またそうしなければ資本家的経済の一般的法則を把握することは出来ないのであるが,それが具体的なる個々の国々の特定の時代における経済学的分析に役立つのである。理論的規定がそのまま具体的な歴史的な個別的な過程としてあるわけではない。かくの如くにして得られた理論をもってかかる具体的過程を分析しなければならないのである。

宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第九巻』岩波書店,348-349ページ

 このような「科学」観(これは古いと感じる人も多かろう)からすれば、いわゆる経済についてこれに忠実に思考をしてきた偉人の系譜は、ケネー→マルクス→モズラーということになるのではないかということを書きたいというわけ。

 何しろケネーさん、これである。

 これって、わたくし nyun がここでやっているこのような表現と同じ考え方ではあーりませんか?

 ベクトル空間の表現が現代風になっているだけと言う話で。 

 そんなことを、ちょっと書いてみたいというわけ。

 つづく


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