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『基礎④信者の祝福』(ヨハ1:12)

はじめに

私の通う「新宿キリスト教会」の牧師による「基礎メッセージ」を現在、文字起こししています。

Youtube動画もあります。動画を見ていただいても、文字起こしを読んでいただいてもどちらでも構いません。

メッセージ『基礎④信者の祝福』(ヨハ1:12)

皆さんもよく街で出会うかもしれませんけれども、エホバの証人と呼ばれている方々は「ものみの塔」という小冊子を持って王国会館という建物で礼拝を捧げている、そういう人たちです。で、その方々は自分のことをクリスチャンとそのように呼んでいます。で、クリスチャンと呼んでいるのですから、クリスチャンというのはキリスト者という意味ですから「キリストを知っていますか」とそのように尋ねると「キリストについてわかりません」と正直にそのように答えられます。で、イエス様に対してその人たちは人間であり、エホバによって作られた被造物だというのが彼らの信仰です。ですからイエス様を人とそのように信じているのですから異端と呼ばれてもそれは当然のことです。

ところが本物のクリスチャンの人たちもいます。イエス様は神ですとそのように信仰を持って答えている、そのような方々にやはり同じように「キリストを知っていますか」とそのように尋ねると、やはり答えとしては「あまりよく分かりません」とそのように答える方がほとんどです。で、キリストは預言者、大祭司、王として油を注がれた方でありその方が十字架の上ですべての問題を完了したと終わらせてくださっています。そのイエス様を信じて心にあなたが受け入れたということがクリスチャンということですから、その受け入れた状態はもうすでにあなたの中ではすべての問題は終わっているという、そういうことなんです。と言ってもいろいろな問題を抱えているクリスチャンの方にとっては、なかなかそうだとは思えない方がたくさんいらっしゃいます。それで自分はクリスチャンとなったその時から、何かしなければ神様が私を祝福してくださらないんだと、そのような考え方に縛られています。自分が今こういう問題で悩み苦しんでいるということは、あまり祝福を受けていないから、もっと私が清くなったり、律法を守れるようになったり、教会で献金を捧げたり、奉仕をしたり伝道したり、そのような、何かを自分がすることによってそれと引き換えに神様が私を祝福してくださる。そのように考えているクリスチャンの方がほとんどですから何か自分はしてないから祝福をされていない、そのように思っています。

ところが聖書はそうではなくてキリスト者、クリスチャンということは、キリストのものであるならばアブラハムの子孫。それは祝福の源ですから、イエス様を信じたというその瞬間にすべての祝福を受けている。それがクリスチャン、キリスト者ということです。そのことがわかると本当に信仰生活というものは自分が受けている祝福を味わうことが信仰生活だということに目が開かれるようになります。何かしたから祝福を受けるのではなくて、もうすでに祝福を受けている、どういう祝福が自分に来ているのかということを味わうこと、それがクリスチャンとしての信仰生活です。

それを味わうためには、祝福という言葉の反対が呪いという言葉です。それでまず第一番目にすべての人は生まれた時からこの呪いの下に生まれてきているものだということを知らなければなりません。それは生まれた時から悪魔の子供という、これが身分だからです。ヨハネの福音書の8章の44節、あなた方は悪魔から出たものであって、とそのように言われました。自分のその身分が悪魔の子供という身分であるために、すべての呪いと災いがここから来るようになっています。それで悪魔の子供であるという証拠は偶像礼拝するということです。出エジプト記の20章4節と5節、多くの人々は目に見える何かを偶像として作ったりまたその前にひれ伏したりしています。ほとんどは宗教ですけども宗教だけとは限らず、自分のお金が偶像であったり、あるいは健康が偶像であったり自分の思想、自分の考えが偶像であったり、いろいろ人によってその偶像というものは違いますけれども、本当の神様から離れてしまった、その結果神様でないものを神であるかのように、自分にとって全てであるかのように、その人は信じてひれ伏しています。

するとその心と思いはどうなるのでしょうか。闇、混沌、虚しさ。その人の心の中には光を失ってしまっていますから、あるものは闇と混沌と虚しさ。結局はどんなものを手に入れたとしても虚しいということです。満たされないその心にあるものは、不安や恐れや心配です。それで心と思いがそのような状態であれば、当然のこととしてその体が蝕まれていくようになります。遺伝であったり、あるいは生活の習慣であったりいろいろな原因で体に病気がありますけれども、その病気のゆえにいろいろな宗教のところに来て、そして癒されるために祈ってもらったりお祓いをしたりと、そのようなことをするということは、その人の心の中に悪霊が自由に入ったり出たりしてもいいですよと、本人は知らなくても、そのような神でないものと交わるということは自分の心を開け放ってしまって悪霊が入る、そのような機会を与えてしまいますし、またそのような宗教であるとか、瞑想であるとか、ヨガであるとか、気功であるとか、いろいろなものにのめり込んでいったならば結局は、悪霊に憑かれてしまうようになります。今でも世の中に、昨日もいましたけれども、誰も人がいないんですけれども一人で叫んでいました。こんなところに車を止めるなと。車は誰も止めてないし車がないんですけれども、何かその人には車があるように見えるのか、大声で本気で叫んでいました。ですからそのように人間がなってしまうということです。非常に恐ろしいことです。

で、やがて体は死んでしまいますけれども、それで終わるのではなく死後の問題があります。ルカの福音書の16章の19節から31節までに、金持ちが死んだってあります。で、金持ちは偶像がお金だったかもしれません。で、健康だったかもしれません。もう自分は生きていくために必要なすべてが与えられている。それは悪魔の子供という身分で生まれて悪霊と交わり、悪魔にひれ伏してそして与えられたものであったわけです。しかしやがてそのような世の中で良いものを与えられていたかもしれませんけれども、死んで見た時に火の中に入って、苦しくてたまりませんとそのように叫んでいます。ですからこの地上で良い思いをしたかもしれません。けれどもしかし神様から離れて悪魔の子供という身分であったならば、どんなに生きている間幸せだったと思っても、死んだ後自分がどういうものであったのかということがはっきり分かるようになります。そしてその問題は必ず子孫に受け継がれてきます。顔や性格が親とそっくりの子供が生まれてくるように霊的なDNAが悪魔の子供という、そのような身分ですから子孫も3代4代にわたって悪霊と交わって偶像を礼拝するようになります。ですからその家の宗教というものがあるならば家の宗教が2代3代と受け継がれてきますから、その家系に呪いとか災いというものが絶え間なく押し寄せてくるようになります。

で、その原因がどこから来るのか分かりません。なぜ私はこんなに真面目に生きているのになぜ私はこんなに一生懸命生きているのに私の家庭にこんなに悪いことが起こるのか。そして清めが必要だお祓いが必要だ、またそこで祈祷師のところ偶像のところに行って清めてもらおう、災いを取り除いてもらおうと思って悪霊と交わりますから、3代4代また呪いと災いが受け継がれていくようになります。このようにして自分の力や宗教で何とかしようと思っても呪いの問題は解決しません。

それで神様の方から一方的にこの呪いの問題が解決する道を与えてくださいました。それが十字架の道です。十字架は木で作られます。それで木にかけられたものは呪われたものであるとあります。ガラテヤ人への手紙の3章13節、キリストが十字架につけられたというのは呪われたということです。で神様はこのキリストを呪われたわけですけれども、それは私たちの抱えているすべての問題を解決するただ一つの道であるからです。

で、キリストの意味はまず大祭司として神様が選んでその人に油を注ぎます。で、マルコの福音書の10章の45節にイエス様が言われた通りに人の子は仕えるために来たのです。それは多くの贖いの代価として自分の命を捨てるために来たのです。血が流されなければ罪の赦しがありません。それで血が流されるということはいけにえとなるということです。ヘブル人への手紙の9章の22節、キリストが真の大祭司としてただ一回十字架につけられた。呪われたものとなったということは、この流された血によってこのすべての呪いが過ぎ去っていくということです。ここで血が流されましたから罪の赦しの道が与えられました。

2つ目のキリストの働きは、王の働きです。第一ヨハネの3章の8節、神の子が現れたのは悪魔の仕業を滅ぼすためです。悪魔はどういう存在でしょうか。悪魔はこの世の王として、このようにして多くの子供たちを自分のものとして支配している、そういう存在です。で、支配されている子供たちは自分の力でそこから抜けること逃れること、それは絶対にできません。なぜならば罪によって入ってきたものは死ですから、死んでしまっている人間が悪魔に奴隷とされてますから、命がないために悪魔の存在も分かりません。命がないために神様の存在もわかりません。ですから闇の中でさまよって、ただ今生きているだけです。それで自分を支配しているそういう存在がいるんだということがわかりませんから、一方的に神様の方でこの真の王を遣わしてくださってそして十字架の上でその死によって悪魔という死の力を持つものを滅ぼされたとあります。ですからイエス様は王として来られてサタン、悪魔に勝利されました。それが真の王の働きです。

キリストはもう一つ、油を注がれて神様から預言者として建てられる、そういう働きです。で、ヨハネの福音書の14章の6節に、イエス様が私は道であると言われました。神様から離れて彷徨っている私たちに、神様のもとに帰るただ一つの道が私である、と言われました。それでイエス様はたくさんの預言者の一人ではなくて神の言葉そのものです。ヨハネの福音書の1章の1節、初めに言葉は言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった。すべてのものはこの方によって造られた。作られたものでこの方によらないで、言葉によらないで作られたものは一つもない。この方が人間となってこの世に来られた。これが神様がキリストを遣わしてくださったということです。

で、世の人たちはこの方を受け入れなかったってあります。イエス様を大祭司、王、預言者キリストとして受け入れなかった。信じません必要ありません、ほとんどの人たちはそのように拒絶しました。しかしヨハネの福音書の1章の12節、本文にありましたように、この方を受け入れた人、その名を信じた人には神の子供という特権が与えられたとあります。このイエス様をキリストとして信じて心の中に受け入れたその瞬間に悪魔の子供というこの身分が神の子どもという身分に変わるということです。それが呪いから祝福に移されたということです。で、呪いと祝福は闇と光のような関係ですから交わることができません。呪いのあるところには祝福はひとつもありません。反対に祝福のあるところには呪いがありません。これがわかるとキリストを信じた私は今こちら側にいた私がこちら側に移ったんだということが悟れると、私の身分はどういうものでしょうか。

イエス様を受け入れたということはその人の中に、もう一人の助け主である聖霊が内住したということです。第1コリント3:16、あなた方の体は神の神殿であって神の御霊が宿っている。神の御霊は神ご自身ですから神ご自身がその人の中に宿っているということが事実ですから、すべての古いものは過ぎ去って見よ、すべてが新しくなりました。もう古い被造物ではないということです。新しく作られたものとなって神の御霊がその人の中に宿っていますから、この神の御霊は永遠にその人から離れることがありません。いつもあなた方と共におられるためとイエス様がおっしゃいました。

で、共にいてくださるこの聖霊は神の子どもたちを導いてくださる方です。以前は悪霊によって導かれたり自分の考えとか世の中の流れというもので導かれて生きていました。しかしヨハネの福音書の14章の26節、神の子どもとなったということはアバ、父よと、そのように呼ぶ御霊が内在して祈りが始まりますから、天のお父様と祈り始め、そしていろいろな悩みとか問題があった時に助けてください、導いてくださいと神様の導きを祈り求めるようになります。それに対する答えが御言葉です。イエス様が語られたその言葉を思い起こすようになる、ある瞬間に聖書の御言葉がその人の中に臨むようになります。あ、これが道だと。このように神様は私を導いてくださっているんだということがわかるようになります。

ですからアバ、父よという祈りに対して今度は聖霊が答えてくださって、祈りの答えが与えられるようになりますから、祈りの答えの一番大きな答えは聖霊の満たしです。使徒の働きの1章の8節、しかし聖霊があなた方の上に臨まれる時あなた方は力を受けます。救われたという時にはイエス様の命がその人の中に入っていますけれども、聖霊に満たされたという時には今度はイエス様の力がその人の中に臨みますから、大胆にイエス様は十字架につけられたキリストです。このように証しがその人から伝えられるようになります。そうすると本人も、この力は自分から出たものではなくて神様が与えてくださった力だということが分かるようになります。

そして4つ目の祝福は、今まで自分の主人であった悪魔に対して霊的な戦いをするようになります。それはイエス様の名前を持って悪魔と悪霊を縛るということです。ルカの福音書の10章の19節、確かに私はあなた方にヘビやサソリを踏みつけ敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。このようにイエス様がおっしゃいましたから、本当に神の子どもとなったというその人の心の目が開かれた時に、自分の以前の主人は悪魔であって、私はここから解放されたということがまず分かります。それから悪霊と交わっていたということが分かりますから、この悪霊との交わりからも解放されたということがわかります。で、次に以前の自分の主人、交わっていたものが神の子供となった今度は私に対して戦いを挑んでくる。誘惑であるとかいろいろなことでその信仰を不信仰にして倒そうとする、そういう存在がいるということがわかるようになります。そうすると初めて、ここで霊的な戦いができるようになります。この暗闇の力がわからないと、空(くう)を打つような拳闘ってありますけれども誰が敵なのかわからないために違った戦いをしてしまって、で間違った一番の戦いは血肉と戦ってしまう。人間と戦ってしまう時には教会の中で、兄弟姉妹と戦ってしまう。これほど的が外れた戦いはどこにもありません。それは完全にサタンに騙されている状態です。心の目が開かれるようになると人間は敵ではない、人間はイエス様がおっしゃったように許す対象であり愛する対象であって、そして戦うべき対象はこの空中の権威を持つ支配者として、今もこの世界で以前の私のように皆さんのように99%以上の日本人を支配しているこの存在と、私たちは戦うように呼ばれたものだということがわかるようになりますから、ナザレのイエスキリストの名によって命じる、サタンと悪霊は縛り退けと。この神の子供の身分だけではなくて権威が与えられています。

それで救われた神の子どもたちに対しては神様は御使いを仕えるように遣わしてくださっています。御使いは仕える霊であって神の子どもたちに仕えるように遣わされているのではありませんか。御使いも目に見えませんけれども、皆さんに仕えて皆さんが祈るとその祈りを御座に運び、また自ら祈りの答えを皆さんのところに届けて。そのような働きをしています。またいろいろな危険なことがありますけれども、その危険な中で御使いが少し触れてくれたら、0点何秒かでも時間とか場所をずらせば私たちはいろんな危険から守られることができます。ですから神の子どもたちに、一人一人に御使いを神様は今も遣わしてくださっています。

それから私たちの国籍は天にあります。ピリピ人への手紙の3章の20節、以前の私たちの国籍はこの金持ちが言ったハデスにありました。死んで悪魔とそのしもべたちのために用意されている永遠の火、それが私たちの国籍、死んだ後の国籍でした。しかし今イエス様を信じたということは天に国籍を持つものとなりましたから、神の国が皆さんのバックグラウンド、背景となっています。神の国が背景となっているということは御使い1人が遣わされると18万5000人が一晩にして死体となるような、そういう力を持っている御使いが皆さんに仕えて祈ると天軍天使が派遣されるのですから、どれほど強い軍隊を従えているかわかりません。このことさえわかれば本当に私たちは安らかであり平安になります。毎日毎日、ある意味で危険な中に置かれています。悪魔の権威は完全にキリストの十字架の血によって終わっていますけれども、しかし依然として悪魔は生きていますし、また悪霊も生きて働いています。依然としてそのような中で私たちは今生きていますから、本当に自分に神の国の背景があって、私は義と平和と義と平和と聖霊によるその内住、導き、満たしという喜びの中で生きていなければ、すぐに不信仰にされて失望したり落胆して、クリスチャンというのはあまり祝福を受けてないんだと、このようにほとんどのクリスチャンの人たちは騙されてしまいます。ですから伝道どころでありません。伝道ということは本当にこの救いが素晴らしいものだということを味わった人だけが伝えたいと思うわけです。このように自分がもうすでに信じてイエス様を受け入れた時に、すべての霊的な祝福が来ているということを味わっていなければ他の人に伝えたいという、そういう思いはありません。なぜならば自分が苦しいのですから自分の苦しい神の子供という身分を他の人たちに同じような身分になってほしいとその人は思えないわけです。

しかし私がイエス様を信じて悪魔の子どもから神の子供に新しく生まれ変わって、この身分というものと、この権威というものがどれほど素晴らしいものであるかということを知ったならば、今度は自分の方から伝えたいと。イエス様がキリストとして十字架につけられた方です。これしか知らないとパウロは言いましたから十字架につけられたキリストだけを、自分の知識として正確に知ってそれだけを現場で伝えてあげること、それが伝道ですから、そのようにすると神の国がこの地上において前進して拡大するようになります。今は0.2%あるいは0.3%と言われているクリスチャンの人口ですけれども本当にこの祝福が素晴らしいものだと味わう人が増えれば増えるほど1%、10%というように神の子どもたちが増えるようになります。

それが創世記の12章1節から3節です。あなたの名は大いなるものとなる。すべての民族はあなたによって祝福される。あなたを呪うものを私は呪い、あなたを祝福するものを私は祝福する。神様はそのようにしてアブラハムに対して絶対的な誓いを与えられました。つまりアブラハムは神様からの祝福を受けたそういう一人です。そのアブラハムと同じ信仰は、イエス様がキリストであるというこの信仰ですから、この信仰を持った神の子供たちはアブラハムの子孫となりました。するとその人によってすべての人は祝福を受ける、そういう機会が与えられるということです。皆さんがアブラハムの子孫であって、キリスト者として現場でこの福音を伝えると、信じないという人はそのまま、ここにとどまるだけです。皆さんのせいではありません。ここにいた人がそのまま私はここでいいですというのですから、伝えた皆さんには何の責任もありません。むしろ伝えたということでこの人が救われる可能性を提供してあげたということです。ですから後になったら、この人はせっかく私に福音が伝えられた時にどうして私は信じませんとあの時拒んでしまったんだろうと、ここでまた死後に後悔するようになります。

しかし受け入れる人がいます。皆さんがイエス様はキリストですと伝えた時に私の心を開いてイエス様を心に受け入れます。この方を受け入れた人、その名を信じた人は神の子どもとなる特権が与えられますから神の子どもによってもう一人の神の子供が生まれていくことによって神の国が広がっていきます。それが神様の願いであり神様のご計画です。そのために私たちは呼ばれた、そのような存在ですから神様は皆さんをキリストのものアブラハムの子孫とそのように呼んでくださいました。まずこの身分というものがどれほど素晴らしい祝福を受けているものなのか、この7つの祝福を毎日味わったならば自然に皆さんがこの祝福を伝えたいと思うようになります。この祝福を味わうだけで全てということです。

神の子どもという身分で神様のすべての祝福がその身分に注がれています。そのことを信じられる皆さんお一人お一人となりますように。主の皆で祝福をお祈りいたします。それでは信者の祝福7つを黙想したいと思います。この7つの祝福が信じた時に、すでに皆さんにもうすでに与えられているということ、それを祈りの中で味わっていただきたいと思います。ご一緒に祈りましょう。(おわり)

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