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置かれた場所で咲く力

社会活動をしている以上、他人との比較や競争は嫌というほど付きまとってきます。

隣の芝生は青く見えるし、他人の成功体験は異常なほどに輝いて見える。



サムネの写真は、以前実家で偶然撮影したもの📸。

すごくないですか?これ。道端のコンクリの割れ目に自生する植物は散々見てきましたが、屋根瓦は根性ハンパない。


そこで気になって調べました。割れ目で自生する植物。

どうやら割れ目は競争相手が少なく、生きていくには好条件そうな。↓



………………脱線はここら辺にしといて。

今回のタイトル「置かれた場所で咲く」。

これはまさにサムネのタンポポを見てスッと頭をよぎった言葉。

今回はこのタイトルについて色々思うことがあったので、そちらをまとめた回です📝。





「置かれた場所で咲く」、僕なりの結論。




それってある種怠慢では??




もちろん言葉自体を真っ向から否定したいわけではありません。

黎明期の踏ん張り、活動初期段階は大いに活躍する考え方だと思います。


一方で「現状維持でいいや」と履き違える、混同する原因になるのでは?


異常に言葉自体が美化されすぎな気もしてしまっています。



かくいう自分は「置かれた場所で咲く力」はいうほど優れた方ではない。


理由は以下。

・与えられたものをこなすことは得意。
・一方アドリブ力、引き出し、大元から派生させることは苦手意識あり。

「置かれた場所で咲く力」は後者の能力に左右されるものだと考えています。閃き力があるかどうかと言い換えても良さそうですね。


じゃあその閃きってどこから来るの?

人生経験が大半ではないかなぁ🧐。具体例が思いつきませんが()。

こういう応用力って一見繋がってないように見えて、2,3年後に意外なところで伏線回収みたいなことが多かったり。


過去の自分は、閃き力が低かったり、機材に対して無駄なプライドがありました。それ故にあり得ないほど非効率的な練習をしたり、余計な出費に苦しんでいました。異常な頭の硬さがありましたね。



そんな無駄な背伸びするよりやることあるだろ?



無いものねだりして自らの首を絞め続ける。置かれた場所で咲けてないいい例です。





初めに僕は、「置かれた場所で咲く」は怠慢ではないかと言いました。



「置かれた場所で咲く」


咲いて終わりなの???咲ければ万々歳なの???


これが怠慢だと思う理由です。揚げ足取りみたいですがそう思いませんか?

咲いた後の行動が明確になってない。咲くことはあくまで通過点。

せっかく咲けたならより多くの人に見てもらった方が、知ってもらった方が良くない?


サムネのタンポポ、いくら割れ目は好条件とはいえ屋根瓦ですよ?

人間で言う、圧倒的貧困環境。食糧不足。


せっかくこんな鬼畜環境で育ったんだから綿毛までしっかり飛ばして枯れたくない?

そこまでできて、いわゆる「置かれた場所で咲くことが出来た」と言えるんじゃないかなぁ。




今回は以上!

それではまた👋。


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