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スバルR-2という車

1958年3月に発売されたスバル360はその後、トップセールスを記録し続けていく​、しかし1967年3月から販売されたホンダN360、同年4月に発売された2代目フロンテの追随によって、スバル360は旧式なイメージにより販売は低迷していく、もちろん富士重工も次世代機の開発は60年代初頭より始まっていたプロジェクトで百瀬本部長率いるスバル360開発チームが担当するも、売れ行き好調のスバル360を前にそれを越すヒット作となるとなかなか難しい開発が続いていた。

​主なコンポーネントはスバル360を継承しつつ、スバル360のデザイナー佐々木達三氏のデザインするK113、社内デザイナーの萩原稔氏のD65、また別プロジェクトでK0という2シーターの250cc単気筒FF車を試作、K0はたぶん、スバル360後継というよりも、コニーグッピーなどのシティコミューターを狙った開発と思われ、早々に打ち切られた。
経緯はわからないが、K113は開発打ち切りとなりD65で後継機開発は決定する。

佐々木達三氏デザインのK113


萩原稔氏デザインの65D


2シーター250ccFF駆動のK0

D65、どことなくK113に似ているとこから、佐々木氏のデザインのモディファイなのかもしれないが、手元にある資料からは社内デザイナーの萩原稔氏となっている。D65はその後D652となり、三角窓を排しR-2のデザインにより近くなる。

D652
R-2発売

1969年7月に発表されたスバルR-2は同年8月15日、満を持して発売された。
スバル360から踏襲されたRRコンポーネントはアルミ合金のシリンダー、リードバルブを備えスバル360の25psから30psにパワーアップ、室内の広さも特筆に値するもので当時の乗用車並みの有効空間を確保、トランクスペースもハーフのゴルフバックが積めると謳った。
富士重工の販売網はラビットスクーターの販売網を利用しスバル360の信用上に成り立っているもので、その絶大なる信頼の下に東名高速開通に伴う高速時代の到来とばかりに買い替えを勧め、他のライバル車を後目にトップセールスを記録、その発売数は販売日より2週間で26000台に上り、一時期販売が間に合わない状態になったほど好調だった。太田工場も一日生産台数450台のフル稼働を続け、順風な船出となった。

太田工場生産風景

スバル360オーナーにとっては魅力であったであろうR-2の登場も、新規の顧客獲得となるとライバル車達よりも、より有利な部分が必要になってくる。
11年前スバル360登場当時と1969年では生活水準も違う、サラリーマンの月給17000円そこそこだった1958年、東京タワー竣工のその年にスバル360は登場し、42.5万円という値段は決して安くはなかったものの、普通乗用車100万円に比べればなんとかなるんではないか?という夢のマイカーであり、それを目標として頑張った人も多かったという、またライバル車もいるにはいたが、スズライトぐらいしか見当たらなかった。
10年という月日で日本は変わった。
アポロ11号は月面着陸をし、サラリーマンの月収は5万円に達しようとしていた時代、R-2は31.5万円という低価格であるが、ライバル車と比べると安くはなく中身の勝負の時代であり、そこには強力なライバルがいる。
スバル360の牙城を切り崩したホンダN360に至ってはエンジンもSOHC、31psを誇り、1年前の1968年には3速フルATのN360を販売している。スバル360・R-2もパウダークラッチを配したノークラッチ車はあったのだが、ホンダの先進性の前には旧式感は否めない、また価格も31.3万円である。
ただ走行において、スバルR-2は決して遅くはない、車重が非常に軽く出来ている為にホンダN360に比べ40kg軽く、2st特有の走り出しの良さから軽快さを味わうことが出来る。しかし、そうは言っても新規顧客を掴む宣伝にはならず、早くもじわじわと販売数の減少がはじまり出したのは1969年暮れあたりである。

スバルR-2 SDX A型

スバル360はR-2登場で消えたわけではなく、ラインアップには載っており同時販売していた時期がある。多分に首脳陣がR-2だけでは不安を覚えた結果だと思われる。ホンダN360ツインキャブ搭載車やフロンテSS、スバル360ヤングSSと同じく、高性能型R-2であるSSラインアップに加わったのは1970年2月、同じくバンとスポーティDXを追加、このSSはヤングSSと同じく36ps発生するツイキャブ車であるが、シリンダー・ピストン・マフラー・足回りも変え、内装もスポーティシートにタコメーター・スポーツハンドル・センターコンソール、外見はスタンダードと同じくライトリングのみにし、サイドモールや石除けなどがない、ノーズフィンとリヤフードのエア吸い込み口、SSエンブレムという出で立ちであった。
日本万博が開かれたこの年、R-2にとって強力なライバルであるダイハツフェローMAXが4月に登場、5月に12年間の販売を終えたスバル360がラインアップから消えた。12年間に渡る生産台数は39万2000台に上り、名車スバル360の歴史は閉じた。

販促品
1970年のチラシ

10月にはR-2の今後の路線を決定付けたモデルとも言える豪華装備が売りのGLがラインアップに加わる。翌月には新型スズキフロンテが発売されると、いよいよ販売が低調になり、根本的なテコ入れが必要になってきた時期だった。
1971年、販売開始から1年7ヵ月後の2月、はじめてのマイナーチェンジを行う、B型R-2の登場である。エンジンは30psから32psへパワーアップ、これはピストンとヘッドを変えジェット付きのキャブレターに変えることで、このスープアップは図られた。細かい変更箇所は別に書くとして、主だった変更にはスタンダード以上にはダミーグリルが付いた。リヤにエアフィンが付いたことでA型B型の見分けがつく、このマイナーチェンジで売れ行きは多少の変化を催す。このマイナーチェンジでSSはラインアップから消える。

A型のGL
B型R-2

同年10月、B型R-2の登場から僅か8か月後、再びマイナーチェンジを行う、これによって登場したのがC型R-2、フロント形状の変更・ゼブラグリルの追加・シート類の変更・メーターデザイン及びハンドルデザインの変更、角張った印象を与えるようになり、当初意図したシンプルなデザインコンセプトから外れに外れたのは時代の流れでもあろうか?それが良きにしろ悪しきにしろ、R-2という車の歴史の一旦であることは間違いない。
そして次期モデルの布石であろう、水冷モデルもラインナップに加わり、SSと同じく高性能モデルであるGSSも加わる。

C型R-2

L型水冷R-2は、当初から空冷デザインであるR-2に無理やり水冷化したもので室内に水冷配管を設置できず、サイドシル内を走らせた為にトラブルが相次ぎ、翌年7月15日をもって生産終了し、9か月間の短命で終わる。
同時に次世代機であるスバルレックスの販売が開始される。レックスもR-2のコンポーネントを踏襲しつつも、当初より水冷を意図した設計であり、兄貴分のレオーネに似たグリルデザインを配した車で、2ドア車のみだった為にR-2の空冷とバンと併用して販売されていた。
そして1973年2月、レックスのラインナップが増えたことに伴いR-2はラインアップから消えた。3年5ヵ月で28万9555台の生産台数を販売して終了。
R-2という車は、スバル360より受け継いだシンプルさを武器に市場に乗り込むも、華美なものを好む飽食の時代へと歩み始めた日本人にとって、どこか時代遅れな印象を払拭すべく、厚化粧を繰り返し時代に合わせようと藻掻いた車のように思える。
今となってはC型L型R-2は特に、その趣きもあり希少な存在である。

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