あれは多分、永遠の前の日

今朝、普段通りのダウンを着込んでエントランスをくぐると、これはいよいよ始まっているかという暖かさ、春の訪れを感じて口元が緩んだ。まだ寒さの残っていた3日ほど前、バイト先で流れるラジオより松たか子さんの「明日、春が来たら」が聴こえた時から、少しずつワクワクが始まっていた気がする。どうやら来たっぽい。
僕はとっても冬が好きで、それならば冬の終わりに寂しさを感じないと筋が通らないんじゃないかという気もするけれども、ちっともそんなことはない。趣のある素敵な日々を送らせてくれた冬の健闘を称え、見事に春へと繋いだこのリレーの気持ち良さに拍手を送る。この暖かさ、春の幕開けを喜ぶことができるのは紛れもなく、冬が寒いおかげなのである。冬は、それそのものでとっても魅力的なのに、春という色々ヒーロー要素乗っかりまくりの季節に対して、良い塩梅にフリを利かせている。
すべてのことを手放しに盲目的に認め、愛し、なんもかんも許せてしまう存在を「推し」と言うならば、僕は冬を推している。夏のアンチ。春を気に入っている。秋にはちっとも嫌な印象がないけれども、忌々しい夏の終わりを伴っているという点で、下駄を穿かされているのは否めない。秋は悪くないんだけどね、夏がさ、ほら。
これから暖かくなっていくのは、それ自体がシンプルに喜ばしい。花粉症じゃないことを今年も心から嬉しく思う。このままずっとそうであって欲しい、春を嫌いにならせないで欲しい。

今週は、ナルゲキが改装工事中ということでユーロライブに立ったり、いつも通りシアターミネルヴァや新宿バッシュに立ったり、かっこよくなったナルゲキに立ったりした。一つ一つが楽しくてめちゃめちゃ笑った記憶はあるんだけれども、それら全てが昨日までに起きた出来事という感じがする。それら全てが昨日まで、まだしっかり冬であった頃までに起きた出来事であり、「冬」という圧縮ファイルに押しやられていて、今はただ夜道の気温が心地良いことで頭がいっぱい、胸いっぱいだ。

今舞台に立つと、例えば30回機会があればそのうち28回くらいは「学生時代は懐かしくてね」みたいな話をしている。時折立ち止まって「いくらなんでもか、いくらなんでもタイムスリップしすぎか?」「浅薄なやり口と思う人がいても仕方あるまいな?」「僕たちは本当に30歳なのか?」「31歳になったら、32歳になったら、40歳になったらどんな話をしているのだ?」とか諸々考えることはあるけれども、それでもまあまだまだたくさん言えることがあるからと思って開き直っている。
もし学生時代に戻って、思うようにキラキラした日々を過ごしてごらんよと言われたならば、今一度穏やかな天気の日の散歩を見つめ直してみたい。
高校生の頃、デートらしいデートを一切したことがなかった。ただ一回だけ女の子と2人で休日に遊んだ思い出といえば、池袋で朝10時から上映の「おくりびと」を見て、終わりでロッテリアに入って適当にお腹を満たし、妙に盛り上がらない(盛り上げられない)まま13時にはバイバイしたことがあった。当時のちんちくりんな脳みそなりに「いくらなんでも解散が早すぎる、淡白すぎるデートとして後々面白くなるかもしれないな」みたいなことをぼんやり思った記憶がある。
後悔しているとかでは無いけれども、「ちょっと散歩しよう」とかなんとか言ってみれば良かった。缶のカフェオレ片手にめちゃめちゃ歩くとかしてみれば良かった。
ボウリングとか、ナンジャタウンとか、映画とか、不慣れなレジャーを調べては逆に憂鬱になるみたいな、そういう前日の慌てふためきもそれはそれで愛おしいけれども、「歩きながらめちゃめちゃ面白いこととか言えば良いか」みたいに鷹揚に構えることができていれば、今現在見違えるようなダンディズムを身につけていたかもしれない。高校生の僕は今の5倍くらい、めちゃめちゃ明るいはずだった。

冬よありがとう、今回も愛おしかった。春よよろしく、過ごしやすいうちにめちゃめちゃ充実させる、バカな季節が始まる前に力を蓄える。

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