僕燃ゆ

かねてからお慕い申し上げ、一度お目にかかりたいと繰り返し繰り返し言っていた大阪の方々と、なんとなんと僕らの城たる渋谷のラジオブースでお会いすることができた。ひとえにご縁と、先方の懐の深さ、そして何よりも言霊の力を信じた結果だ。
大阪にいらっしゃるとて、忙しく活躍されているとて、一後輩芸人と現場を一緒にするのに言霊の力を注ぎ込むというのはあまりにも情けなかろうが、全然良い。余裕で全然、情けなさを覆い尽くして余りあるほどに嬉しかった。
来週の月曜に配信されるので是非とも聴いて欲しい。あまりの情けなさにざんない感じに聴こえるかもしれない。でもまあ、ぜひ、聴いて欲しい。人間が出ていると思う。



ラジオ収録が昼過ぎには諸々終わって、一度帰宅した。夜にはキングオブコントの2回戦を控えていた。
早めに船堀に乗り込んで、スマホ片手に貧乏ゆすりしながらコーヒーしばくのも良し、下手すりゃ客席に潜り込んで偵察するのもやぶさかではないか!?とも思っていたが、えげつない雷雨を前に早々に諦め、自室でじっとすることにした。
なにせ昼間にドギマギし過ぎた。それはもうじっと、ベッドに横たわり、雷鳴をBGMに天井をぼうと眺めて過ごした。なんならあんまりスマホも見なかった。天井をぼうと眺めて過ごした。



「推し」という言葉、当然のような顔で見聞きし、使ってみてもきたが、実際のところ腹の奥の奥で粘り腰、ともかく嫌いな言葉、そういうカルチャーとしてあるのは全然良いけど「推し」も「尊い」も全然嫌な響きだなあとしぶとく思い続けていた。
それはまあ、もしかしたら僕に推しがいないからかもしれなかった。

嬉しすぎるラジオを夢心地で終え、放心して天井を見つめて思ったけれども、推しというのはこういう概念なのかもしれなかった。会った時にいくらなんでもドギマギし過ぎて、情けなくて、終わった後ぽうと心が熱くなった感じ、頭を掻きむしってあそことあそことあそことあそこをミスった!と叫びたくなる感じ、それでもやっぱり心がぽうと熱くなった感じ、いや全然わからん、違うかもしれないけど、なんかこれが、推しかもしれなかった。僕は推してたのかもしれない。





「推し」という言葉に嫌な印象を覚える理由の一つに、「推す」という動詞とあんまりセットで捉えられてない感じがある。「推す」の元を離れ過ぎている。連用形が一人歩きしてる感じがめっちゃ気持ち悪い。浅薄に、ろくに考えず真っ先に使い始めた人、まあ1人目は良いんだけど10人目とか100人目に使い始めた人、もうちょっと慎重になって欲しかった。何をしているんだ。

みたいなことをずっと、全然本気で思ってた。でもいくら言葉についてぶうたれたとて、誰かが誰かを推しとしているエネルギーには抗えなさそうで、それがもどかしかった。誰かを推すこともせずに文法についてふがふが言うのがいくらなんでも弱くて、残念な立場になるのが残念だった。




今でも思うこととしてはすごく大きくは変わらないけど、なんかでも、そんなんはさておき誰かを推せるという方がとてもエネルギッシュで、モリモリ嬉しいことなのかもしれなかった。もうあんまり言葉についてつべこべ言わなくても良い気がしている。モリモリ嬉しいエネルギーを感じたから。
頑張ればまた会えると思う。「頑張ればまた会える」というところに位置付けるのがともかく情けないけれども、そんなんは良いからともかく頑張るエネルギーになる、それが手放しに嬉しい。



キングオブコントは準々決勝に進出できた。名を上げる、名を上げて格を上げるチャンス、そうしたらばまた、チャンス。メラメラ燃えている。

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