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神屋伝

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様々な神屋のエピソード、思い出などを書き綴ったのでまとめます。壮大な自己紹介にもなっていますので、少しでも興味を持って今後もお付き合い頂ければと思います。 詳しくはこちらから … もっと読む
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#駅伝

ランニング事業の中核にKRC、そして2021年に走遊Labも加わりました

東日本大震災を契機に「スポーツとは何か」「何の意味があるか」を問い続けていたんですよね。その中でこちらのnote「改めての自己紹介」もご参照頂ければ幸いですが(前編・後編)、こちらではランニング事業について記していきます。 他にもスポーツを通じて出会いを、交流を、地域の活性化を、スポーツ文化ツーリズムとして学び、文化を・・・と、多くのキーワードが浮かびます。 体力や精神力を鍛える、向上させる「体育」も必要ですが、生涯安全安心に楽しめる遊びや生活そのものとしてのスポーツとい

中国山口駅伝'98:高校3年時

非常に残念なニュースが飛び込んできました。 ランニングブームなどで多くの大会が創設される一方で、競技性の高い、一部の人を対象にしたレースは維持していくのも難しく廃止が相次いでいるような印象を持ちます。 そういった意味では時代の流れのような部分もあるとは思いますが、でもアスリートを育む、そして高いパフォーマンスを好むファンにとっては非常に重要な機会だと思うんですよね。 「する」スポーツとしては今、裾野が広がっていくし、「観る」も楽しいコンテンツを提供するレースやイベントも

中学駅伝の思い出:2年生

その年、大きなニュースがあった。中学駅伝の全国大会が創設される。それまでは近畿大会止まりで。県から代表が1校のみ選ばれる。 当時は相当強い駅伝王国兵庫。 西脇工業や報徳。全国トップの高校があり、その多くは中学校でも活躍した選手たち。結果から書くと、全国大会の第1回も第2回も同じ加古川市内にある中学校が優勝した。 そんな環境だったけどチームは全国を目指した。先輩方が強くてもしかしたら行けるかも⁉️と思えるくらいだった。同期も中々強かったし。 そんな中で共に揉まれて地力を

中学駅伝の思い出:1年生

初めて出場した駅伝は何だったろう?記憶を頼りに思い出そうとしてみると・・・ 公式戦である東播中学駅伝は補欠だったように思う。その前にあったと思うのが学年別で出場出来るJC駅伝という大会だと思うんですよね。多分平荘湖。頼りない記憶。 その頃で陸上競技を始めて半年くらい。チームの中位くらいの力だったのかな?個人戦でも少しずつ面白いレースが出来、徐々に力を付けつつ自信も出てきた頃。 東播の補欠も悔しさも多少あったけど、それよりは県大会に繋がる大事な駅伝だから先輩方を応援する意

「#あの夏に乾杯」 色々思い浮かぶ夏の思い出だけど

夏と言えばやはりランニング、合宿と共にあったと思うんですよね。多くの夏をそうして過ごしてきました。これは現役時代、指導者としてもそうです。 ただ残念なことに自分はお酒を呑まないのでキリンビールさんには全く貢献できていません(^^;そして自分が活躍していたとある駅伝も会社が違うからなおさら(笑)ということで今回はあくまでnoteお題企画に反応して書くだけですので応募は泣く泣く諦めておきます。 さあて、どんなことを書きましょうか。幾つか書ける候補はあるのですが、やはりここは大

ある陸上競技選手の足跡:出雲駅伝:大学4年次

一番印象に残ったのが4年次。とにかく負けて悔しかった思い出。それしかありません。 その年、駒大は全日本、箱根と制したので出雲さえ勝っていれば三冠だった。もちろんそれは結果論でしかなくて、その時点では前年度に順大が三冠を遂げており、こちら駒澤大学としては奪回する挑戦者という立場だった。 以下、有料部分になります。

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自己紹介:経歴来歴中心:更新(24/4/1)

2024年4月1日よりNPO法人加古川総合スポーツクラブの職員となります。2020年より理事、業務委託で関わってきましたが、より深く関わることとなりました。詳細は別途ご紹介予定です。 個人事業主:オフィス神屋は(フリーランス時代含む)10年目となりました(2024.1より)。2022年7月株式会社NOVA DEPORTAREを設立、代表取締役となり加古川優考塾(塾長)、ランチャットなどを運営しています。他にも様々な事業や趣味で活動しています。 詳しいお仕事内容は「お仕事依

ある陸上競技選手の足跡:1996:高校2年生時:日本海高校駅伝

来る10/7(日)に日本海高校駅伝が鳥取県で行われます。西日本では特に全国への代表権をかけた県高校駅伝が1ヶ月後以内に控えているため、調整段階であるとともに、今年の状況を伺う、力試しとする非常に大事な駅伝です。 これに出場しないで競技会でベスト記録を大幅更新狙いという考えもありますが、当時の西脇工業高校は記録より勝負重視だったので、日本海高校駅伝を勝って弾みをつけるという感じだったと思います。 さて、そんな日本海高校駅伝ですが、私は2年生時が初出場でした。別に記しますが、

ある陸上競技選手の足跡:1998:高校生時:卒業間近:レース出場

今回はテーマをこの1点に絞ってお話します。前回の全国校駅伝終了後、部活動は引退。ですが、大学で競技続行を決めていたので、ある想いと共に練習とレース計画を立てました。 それは・・・ 高校時代は1年生の時に出遅れたんですね。それがずっと響いて思うように行かなかった。実績不足で悔しい思いも沢山した。ならば大学では鮮烈デビューをかざろう! そう思っていました。 それまで西脇工業の卒業生は大学で苦労すると言われていて。以前にも書いたように練習量が少ないので、大学で対応できないの

ある陸上競技選手の足跡:1995-98:高校生時:高2~高3の駅伝

2年生時に報徳に県大会で敗れ、全国高校駅伝は「観るだけ」になりました。その悔しさを持って近畿大会に臨みましたがここの辺は微妙でしたね。 記念大会であれば近畿トップで全国に地区代表で行けます。その数年前に一度県で敗れ、近畿で勝ち、全国も制覇ということがあった西脇工業。 ただ高2時は平時の為、実に何年ぶりかくらいに「全国」が消失し、近畿の意義も薄れていたという訳です。かといっていつもなら新チームに移行するのは都大路終わってからの冬休みなので「微妙」という訳です。 正直あんま

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ある陸上競技選手の足跡:1995-98:高校生時:先生のミーティング

西脇工業では当時名将と言われた渡辺公二先生が指導をされていました。自分たちが高校3年時に全国制覇だけでなく、高校最高記録がどうしても欲しかったのは渡辺先生が定年を迎える年だったから。 その渡辺先生のミーティングはどんなものだったか? ★ 大まかに分けると日々の練習前後のミーティング。試合前後のミーティングの2つがありました。 練習前後は恐らくコンディションチェックのようなもので、選手の状態をうかがいながら簡単な指示を出しておられたと思います。 基本的には渡辺先生は練

ある陸上競技選手の足跡:1995-98:高校生時:スピード練習の思い出

当時、日本トップクラスのチームだった西脇工業高校。一部の選手が強い訳ではなく、入部してくる選手の実績たるや・・・ 全中経験者は多数。それどころか全中優勝・入賞者。駅伝全国制覇など、有数の選手たちが集まっていました。 そんな選手たちはお互いが中学校からのライバルであり、途方もない負けず嫌い。練習、特にスピード練習になると全力疾走。1本1本に勝負が掛かります。 もうその辺のレースを走るより強烈でした当然、故障も増えるのですが、ちょっとでも出遅れるとレギュラーが遠のく為、治す

ある陸上競技選手の足跡:1992-95:中学生時:練習

当時の先生が凄く熱心だった。この下記に以前記した「日岡山」を書いているけど、練習場所は校庭だけでなく、あちこちに及んだ。競技会も大会も沢山連れて行ってくれたけど、練習でもちょっとでも「為」になると思ったらどんどん行動する先生だった。 〇神戸製鋼グラウンド何かと話題になってしまった神戸製鋼ですが、加古川の沿岸部にもその存在感はしっかりとあり、400mトラックがありました。今はもう休部?しているのですが、神戸製鋼陸上競技部があったんですよね。 そのグラウンドをお借りし、よくタ

ある陸上競技選手の足跡:2006-現在:セカンドキャリア:指導者、そして

ある「選手」としての足跡ですが、前回末尾に書いたように「セカンドキャリア」も重要な問題なので今回さらっと記します。 セカンドキャリアについてはこちらもご覧ください。 指導者に招聘された先は武蔵野学院大学。創部から携わって欲しいというお話があり、部員0からのスタートでした。最初は監督というより事務員として働きつつ、下準備をしていく感じです。 今、もしこのようなnoteやSNSマーケティングなどがあればそのストーリーをリアルタイムで書いていたかもしれません(笑) 2006