「トランスジェンダーになりたい少女達」について、再び
本の危険性と切り分けについて
さて、先日noteに書いた『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』は、KADOKAWAからの出版が取りやめになった後、『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』として、産経新聞出版から発売された。
上記で私が書いた問題点について、「どんな本にも良いところも悪いところもある」「特定の立場から書かれる本があってもよいし、そうした本において反対意見が詳しく書いてないのは当たり前」といった意見をいただくことがある。
そういう本であれば、重要な主張があるなら、他の部分で多少の間違いがあったところで、他の本なり議論なりによって補完すれば良いから、出すか出さないかなら、出したほうがいい、ということにもなるだろう。
一方、私は、この本の問題は、そういう「良いところも悪いところも~」という風に切り分けられるレベルではないと考える。
根本にあるのが、著者のLGBTへの存在自体の否定であり、それに沿った、害のある教育方法を提言しているからだ。
著者のスタンス
まず著者のスタンスは、どういうものであるのか。
著者の主張としては、トランスジェンダーだと思った子供が、そうでなかった場合、トランスジェンダーと信じこむことで、また、様々な医療を受けることで不幸になってしまう。そうなることを止めたいというものだろう。
それ自体は、理解できる話である。
一方で、人間には偏見というものがあり、偏見というのは自覚してないから偏見なわけである。偏見に基づいた行為や主張が差別となり、相手を苦しめることが起きる。
著者の主張が、本当にその通りかどうかは、単に「ここで著者がそう言ってる」だけで判断することはできない。そこで、もうすこし細かく見ていこう。
まず、はじめに思うのは、著者が言うようにトランスジェンダーだと思うのが、子供の錯覚である場合がある一方で、全部がそうとは限らない。(注1)
強い性別違和を抱えており、トランスジェンダーと自認することが必要な子供について、「おまえはトランスジェンダーなんかじゃない」と親が説得するようになってしまったら、子供にとっては地獄である。
どっちに決めつけても、子供達にとっては大変なことになるわけで、そこは、両方の可能性があることを前提に、何が子供達にとって一番良いかというのを、慎重に考えていく必要があるだろう。
子供が自分はトランスジェンダーだから治療を受けたい、と、言われて、手放しで、受け入れる必要はないが、かといって、それは絶対に間違いだから、とにかく、あきらめさせろ、というのも違う。
著者の主張のように、子供達を助けたいと考えるならば、子供達を尊重する姿勢が必要である。もちろん保護者が子供を尊重するというのは、言うことを全部真に受けて好きにさせる、ということではない。時には反対し、叱ることも重要だ。
一方で、子供の言い分は言い分として、真摯に受け止めるべきではある。全却下すればいいというものではない。
そこについて、この本は、どうしているか。
子供達の立場の尊重(の欠如)
まず冒頭。
子供の立場を尊重しない点は、最初に登場するシュライアーの代名詞の扱いにも現れている。
今のところ日本人には、あまりしっくり来ないが、アメリカでは、自分を現す代名詞(he/she/they)などを自分で選ぶのが、一般的な主張となっている。
子供達(シュライアーの言う娘)の中で、トランスジェンダーとして生きている人には、当然、自分のことを、he/himもしくはthey/themで呼んでほしいものもいるだろうが、本書では、一律、she/herである。
これについて著者は「当然ながらティーンエイジャーはまだ大人じゃない」(p8)で済ませている。
小学生とかならまだしも、ティーンエイジャー(特にハイティーン)なら、当人の意見も(100%そのままではないにせよ)尊重されるべきだと思う。
しかし、著者は、それらの子供達は、「トランスジェンダーの熱狂の波」に巻き込まれた、トランスジェンダーでない人間であると完全に決めつけているわけである。
こうした決めつけは、本文にも続く。
「トランスジェンダーになりたい少女達」は、この後、様々な家庭の娘達が、思春期になり、自分がトランスジェンダーだと主張したことで、不幸になっていく、というエピソードを描いていく。一方、こうしたエピソード群のほとんどでは、母親からのみの聞き取りで書かれているからである。当事者である子供がどう思っているかは、シュライアー本人も知らないのだ。
性別違和に限らず、「普通」と異なる子供を抱えた家庭において、親と子供の見る景色は、大きく異なる。
普通じゃない人生を送る子供を、親は「子育てに失敗した」「不幸にしてしまった」と思うかもしれない。
一方で、子供にとっては、別に不幸じゃなかったり、あるいは、不幸の原因は、別のところにあったりするかもしれない。
どちらが正しいという話ではないが、親だけの意見を聞いて話を作れば、歪むだろう。
にも関わらず、シュライアーは、親だけの意見を聞いて、「子供がトランスジェンダーになって(なったと勘違いして)不幸になった」というエピソードを書いている。
さらに、登場する親や子供達の名前が仮名であるのは当然として、登場する子供達にも、どのエピソードが自分の話なのかは伝えられておらず、わからないようになっている。なので子供から「いや、うちの親はこうだったと言ってるかもしれないけど、自分から見たらこうだったよ」という反論もできない状態である。
こういう状況で、トランスジェンダーになって不幸になった話ばかり一方的に重ねていってるわけで、単なる反トランスジェンダー・プロパガンダと言われても仕方ないだろう。
私の友人は黒人です
作者は、トランスジェンダーの存在を全く認めていないわけではない。自分に近い意見を持つ、トランスジェンダーとは仲が良いことをアピールしている。
世の中には、「I have a black friend」論法というのがあり、人種差別主義者の人が、よく、そう言って自分は差別などしていない、と、主張するわけである。
当然ながら、黒人の友達がいる、と、主張することが、黒人差別、人種差別をしてないことの保障にはならない。シュライアーの場合はどうだろうか?
シュライアーの場合、思春期になって、トランスジェンダーを主張するようになった子供達については、これまで書いたように、ほぼ全員が、気の迷いであり、「彼女」であり、トランスジェンダーと認知したことで不幸になった、という物語を貫いている。
彼女がそうする理由は、従来のトランスジェンダーにおける性別違和は、幼い子供の頃から強く感じるものであって、そうであれば確実に親がわかるものであり、思春期になってから急にトランスジェンダーと言い出す子供は、最近現れた、それとは異なるものだ、ということだ(p15他)。つまり「トランスジェンダーの熱狂の波」に飲まれた存在だというわけだ。
要するに「本物の」トランスジェンダーは思春期になってから、そんなことを言い出したりしないし、親は常に自分の子供がトランスジェンダーであるかわかる、という議論である。
思春期というのは、色々なことに悩む頃ですから、自分の性自認について、様々に悩み、あとからすれば勘違いだったと思うようなことも当然あるだろう。
その上で、トランスジェンダーかどうかは幼少期から決まっており、親にはわかる、というのは、事実として間違っている。子供の頃から確信がある人もいれば、そうでない人もおり、親がそれをわかるかどうかも、人それぞれである。
にも関わらず「親ならわかる」=「わからないのは、偽物のトランスだ」という意見は、危険で、暴力的だ。
子供への教育の提言
この本では、第十一章から、「わたしたちは少女のために何ができるか」という項目で、トランスジェンダーを主張する子供達に対して、親はどうすべきかという話をしている。
シュライアーの場合、思春期から言い出す少女は、全員、真のトランスジェンダーではなく、様々な情報のせいで、そう思い込んでいるにすぎない、迷わされた存在である。
だから、そのアドバイスも、「子供の気の迷いだから、トランス関連の情報から遠ざけろ」というものになる。
具体的には「子供にスマホを持たせるな」「怒る時はしっかり怒れ」「学校のジェンダー教育を支持するな」「田舎へ行け」といったものだ。
子供が様々な理由で性別違和を感じている時、親がこの本を読んだ場合、「子供の言ってることは全部気の迷い」「親のほうが正しい」「怒る時は怒れ」「ジェンダー情報から遠ざけろ」という態度で迫ってくるわけである。
異性愛以外の様々な属性を持つ子供は、成長の過程で、家庭の中で折り合いを付けることに苦労するのが多いことは言うまでもない。
そうした中に、科学的に見える根拠をつけて、こうした暴力的な指示を投げ込むことは、子供にとって悲惨なことになる。
もう一つの点として、トランスジェンダーでないからといって、異性愛だとは限らないというものもある。
自分の性別違和を訴え、トランスジェンダーかもしれないという子供達の中には、後に自分が、トランスではないが、レズビアンやバイセクシャル、他のジェンダーだったと気づく子供も多いだろう。
そうした子供達も、スマホを奪われ、ジェンダー教育のない田舎に引っ越され、家庭内で怒られるわけである。
結局のところ、ここにあるのは、トランスだけに対する話ではなく、「ジェンダー教育」に関連する情報を全て子供から遠ざけ、それによって、子供の異性愛以外の属性を全て否定しようという意志である。
シュライアーの思想
結局のところ、シュライアーは、どういう思想なのか。
第五章、「ママとパパ」では、以下のような記述がある(p142)。
「母親たちが寛容なために、娘はひどく欲している反抗心を奪われたのではないか、と疑問を抱くことがたまにあった。もし娘が中学校でゲイ・ストレート・アライアンス(GSA)に入会するのを断固反対していたら、もしタキシードを着てプロムに行こうとする娘をカメラに収めたり、ハグしたりしていなかったら、もし実際は感じてない恐怖や恥ずかしさを感じているふりをして、長々と説教したり、ジョン/ヒューズ監督の映画(『ホーム・アローン』など)の登場人物がするように、怒りを爆発させていたりしていたら、それに反抗する娘は、親が相手の独立戦争は成功したと思って、勝利宣言をしていたかもしれない」
親が娘の主張を認めるから、娘は親をイラつかせようとして、どんどん過激なことをし、最終的にトランスジェンダーに行き着いた、という話であり、そうならないように、怒っておけ、という話である。
論旨としては理解できなくもないが、例としてあげられているものが問題だ。ゲイ・ストレート・アライアンスに参加して、同性愛者への連帯を示すのは「親への反抗心」なのか(注2)。単純にゲイの友達がいたり、本人がゲイなのかもしれない。タキシードを着てプロムに行くことも、異性装を好んでいるだけかもしれない。
逆に言うと、ここにあるのは「あなたの娘は、本当なら、ゲイ・ストレート・アライアンスを支持する人間ではない。タキシードを着たがる人間でもない。それは親への嫌がらせとしてやっているのだ」という、著者の思想だ。
娘が同性愛者と異性愛者の連帯に理解を示していたら、とにかく説教して怒っておけ、という思想だ。
子供からスマホを取りあげて、田舎で暮らして、怒る時に怒れ、という指示が、トランスジェンダーだけでなく、他のジェンダーの人も巻き込むと先に書いた。
ここを見れば、彼女がそれを気にしていない理由がわかる。
彼女は、異性愛者と同性愛者が連帯したり、異性装を認めるような文化、全てに批判的なのだ。
出版社
原著「Irreversible Damage」の出版社は、陰謀論を含む保守系の書籍を多く出している会社である。(『The Politically Incorrect Guide to Climate Change』(地球温暖化や進化論は、ポリコレリベラルの嘘だといった内容を含む)。
これまで書いてきたシュライアーの、異性愛以外を認めない姿勢も、その延長線で考えるとわかりやすい。
本の中でシュライアーは、何度も、自分が若かった頃、世の中にはトランスとか、ほとんどいなくて、みんなネットじゃない暖かい繋がりがあって……という話をしている(p23他)。
昔はよかった、という話である。ゲイ・ストレート・アライアンスに参加する娘も、タキシードを着たがる娘もない、わかりやすくて、住みやすい世界、というわけだ。異性愛以外の人が、その中で苦しんでいたであろうことは、彼女の目には入らない。
これはヘイトなのか?
これまでに書いた通り、シュライアーの本は、表面的には、トランスジェンダーとして医療措置を受けたりする子供達が傷つかないことを願って書かれているが、その根底には、異性愛以外を否定する思想が強く存在している。
そうした思想の元に、「親は正しい」「子供にジェンダー教育を与えるな。そのためにはスマホを奪い、田舎へ行け」「怒る時には怒れ」「そうすれば子供はトランスとか言わない」と主張するのは、異性愛以外の子供達のアイデンティティを全否定することであり、精神的物理的な虐待ともなるだろう。
私は、特定の属性に批判的な思想を持ち、子供達の属性を否定・抹消し(ティーンエイジャーは大人でないからheを名乗る権利はないのだ)、親にも、そうさせようとする行為は、放っておけない暴力だと考える。
ヘイトという言葉は非常に強く、混乱を招きかねないので使うべきではないが、しかし、これはヘイトの条件に当てはまると私は考える。
最後に
シュライアーが示した様々な問題、近年のトランスジェンダー急増は、従来のトランスジェンダーと一緒にできないのではないかということ、安易なトランスジェンダー認定や、様々な医療措置が問題であること、自体は重大な問題であり、議論すべきである(注3)。
トランスの中には、性別変更の手術を行った後、様々な理由で後悔し、元に戻すデトランスを選ぶ人もいる。戻すといっても、手術を伴う大変なことである。そういう場合もある以上、処置を認める際には慎重になるべき、という意見も、当然ある。
その上で、この本は、そうした悲劇を理由にしつつ、子供達の異性愛以外の傾向を抹殺するように親に働きかける内容を持っている。その根底にあるのは、著者の保守思想である。
異性愛以外を否定する著者が、その思想によって、親に子供にジェンダー教育を与えるなと言っているわけで、根底から差別的であり、一番最初に書いた通り、これらは、相殺したり、分離したりできるものではない。
注1:海法は、ジェンダーは、基本的には本人の自由に委ねられるべきだと考えており、「真のトランスジェンダー/偽のトランスジェンダー」みたいな区別を外部から押しつけるのは問題があると考えています。
その上で、性自認について迷うことも、勘違いであることもあり、また、未成年に対する医療措置には十分に慎重になるべきとも思いますので、その範疇において、子供が自分がトランスジェンダーと言った時に、親が主張を即受け入れることはないでしょう、という話です。
注2:p32では、ゲイ・ストレート・アライアンスに参加したジュリーのエピソードがあります。ジュリーは、同性愛者の母親二人を両親としています。なので両親は子供が、ゲイ・ストレート・アライアンスに参加したことを歓迎していました。
注3:一方で、そういう問題があることと、問題について書いているシュライアーの本文中の主張や事実関係が信用できるかは、まったく別の話です。本の主張の中心となっている、リットマンのROGD理論(急速発症性性別違和)は、多くの批判がなされています。
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