【やが君二次創作】"Insomnia"
眠れない。
正確には、眠ってもすぐに目が覚める。同じ夢を見る。来る日も、来る日も。夢というよりは、記憶。あの日の記憶。あの日、私はお姉ちゃんと同じソファに座っていっしょに過ごしていた。醤油を買って来てとお母さんに頼まれた。私かお姉ちゃん、ジャンケンで負けた方が行くことになった。私がチョキ、お姉ちゃんがパー。私はへらへらとした顔でお姉ちゃんを見送った。それから少しすると、近くで救急車のサイレンの音が聞こえてきて、ここでいつも目が覚める。ひどく汗をかいている。何もない天井をぼんやりと見ながら、もういない人へ呼びかける。
「お姉ちゃん」
返事は帰ってこない。
眠れない。
正確には、永い眠りの中にいる。今の私にできることは少ない。睡眠も、食事も、人と話すこともできない。妹のところへ、私を喪った心的外傷とそれに伴う不眠でぼろぼろの燈子のところへ行き、もう届かない声で呼びかけ、もう触れられない手を伸ばす。もう何もできない自分を嘆き、あの日の自分の不注意を呪う。もう完全に消えてしまいたくて、あの日の横断歩道へ戻って、道行く自動車に飛び込み続ける。来る日も、来る日も。これらの行動には何の意味もない。もう意味のある何かを成すことはできない。あの子がやつれていくのを、私は見ていることしかできない。私を吹き飛ばしてくれる自動車もいなくなった午前4時、私はふたたび燈子の様子を見に行く。かつての私の家に入ろうとしたそのとき、ふいにドアが開き、小さな人影がふらふらと歩み出てきた。虚ろな目で「お姉ちゃん。お姉ちゃん。」と譫言のように呟きながらどこかへ歩いていこうとする燈子。限界が近い。私は無駄を悟りながらも呼びかけずにはいられない。
「燈子!どうしたの!?」
眠れない。
正確には、眠ってもすぐに目が覚める。同じ夢を見る。同じ?気づいている。同じではない。家のソファで私と過ごすお姉ちゃんの顔が、日に日にぼやけてきている。それが信じられなくて、許せなくて。私は机の引き出しにしまいこんだ家族写真を取り出した。明かりがないのでよく視えない。私の目も霞んでいる。今日はもう眠れないだろう。時計を見る。午前4時。ふと最近聞いた噂を思い出した。お姉ちゃんが事故に遭ったあの横断歩道に、女の人の幽霊が出ると。ばかな話だ。子供でもわかる。お姉ちゃんにはもう会えないのに。頭の中に並べた言葉と裏腹に、私の足は動き出した。ドアを開けて、寒空の下へ出る。お姉ちゃん。お姉ちゃん。
(燈子!どうしたの!?)
外は静かで、誰もいない。まばらな街灯を頼りに歩いていく。
(こんな時間に危ないよ!?ねえ、どこへ行くの!?)
その横断歩道は家からそれほど遠くもない。もう見えてきた。
(だめ!止まって!ねえお願い!聞いて!!)
横断歩道には誰もいない。無駄だけど、呼びかける。
「お姉ちゃん、そこにいるの?」
「燈子!!!」
ふらふらと歩いていた私は突然正面から突き飛ばされ、尻餅をついた。正面?正面を見ると、目の前を自動車が横切っていった。ふたたび静かになった横断歩道を呆然と見つめる。誰もいない。声が聞こえた気がした。今まで聞いたことがないくらい必死で、苦しそうで、ずっと喉を酷使していたみたいに掠れきった声。私はもういちど呼びかける。
「お姉ちゃん?」
返事は帰ってこない。
眠れない。
まだ、眠ってもすぐに目が覚める。しかし見る夢はこの間までと少し違う。私はお姉ちゃんと同じソファに座る。私を見るお姉ちゃんの表情ははっきりしている。あの日と同じ、やさしい表情。醤油を買って来てと頼まれる。私がチョキ、お姉ちゃんがパー。ここが変わってくれたらいいのに。私は相変わらずへらへらとした顔でお姉ちゃんを見送る。少しすると、近くで救急車のサイレンの音が聞こえてきて、目が覚める、その直前、お姉ちゃんの顔が一瞬だけ浮かび上がる。どの記憶にもない、かなしい表情。私は起き上がり、机の引き出しにしまいこんだ家族写真を見る。今夜は月明かりでよく視える。ソファに座っているときと同じ、やさしい表情。表面に私の顔が反射する。隈が刻まれた両眼の焦点はぼやけている。ひどいありさまだ。夢の最後、お姉ちゃんのかなしい顔を思い出す。あんな顔をさせているのは私なのだろうか。次に会いに行くときは、もう少ししっかりしないと。私はベッドに仰向けになった。何もない天井にお姉ちゃんのやさしい顔を思い浮かべる。眠れるかはわからないけれど、もういちど目を閉じてみよう。
(おわり)
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