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弐度目の夏『きさらぎミッドサマー弐式』

 自分の中の記念碑的作品である『きさらぎミッドサマー』。初回上演時に思いがけず好評をいただき、そして再び上演することができた。とても恵まれた運命である。

 そもそもこの作品は、90年代鬱エロゲーを全年齢対象版でやりたいという思いから始まった。大ヒットサイコロジカルホラー映画『ミッドサマー』を観ていないまま書き始めたら、去年の上演の前に映画『きさらぎ駅』が公開された。色んな巡り合わせにすみませんすみませんと頭を下げた。
舞台上で役者がマーダーミステリーやストーリープレイングを上演する作品はたくさんある。私は、役者は知ってるけど観客が知らない情報量の差を埋めるべく策を練った。具体的には、ハンドアウト、密談、情報カード。それらはマダミスやストプレでは必須の楽しみではあるが、どうも舞台と相性が悪い。観客はすべてを観たいものだからだ。ならば、とすべてを公開することにした。結果としてこの試みは上手くいったと思う。

 そしてこれが重要なのだが、マダミスやストプレは、やっている本人が一番面白い。観客よりも楽しいのだ。役者と観客の楽しさのバランスについて、初めて『きさらぎミッドサマー』を作ったときには無意識にクリアしていたが、この作品は役者の体験する苦しみは、観客の体験する『登場人物の苦しみ』より重い。エンタメは演者より観客が楽しくあるべきだと思う。故に、逆算的にエンタメが成立する作品なのだ。かといって、役者がつらいだけで終わるかといえばそうではなく、後から『客観的に』思い返してみれば、楽しみのある作品になっている。我々は、産みの苦しみを持って舞台に立ち、その結果観客に好意的に迎えられたのだ。

 私が作品を作る時、完成形が視覚で視えていることが多いのだが、そこに至る材料にはたくさんの音楽があった。参考文献ならぬ参考音源として列挙する。
I've AKI『Two Face』
大槻ケンヂ『Guru』
みとせのりこ『伽藍の空』

 それでは出演者の紹介です。

星乃圭吾さま
 イケメン大学生としてスターリング。本人は心優しい男なのに、キレ系クズ演技がとてもうまく、なんか怖いけど舞台上では持ち味を思うさま発してくれた。多分感情に一番振り回されるけど、その振り回しに抗うだけの資格もないと自責の念に駆られながらキャラクターを全うしてくれた。『きさらぎミッドサマー弐式』は群像劇ではあるけれど、メインというか主人公はシンジなので、エンディングの余韻は素晴らしかった。言葉はいらないのですよ、観客が想像するから。

進藤恵太さま
 やっと私の作演出作品に出てくれた。それだけでありがとうと涙する。回想シーンで嫌な先輩役で絡むのが厭になるくらいいい人だった。キャラクターとして、怒りや苛立ちや嫉妬を内包しながら、それでも優しい人であろうとしてくれたのがすごくわかって、直情的でないバトーが見られたのが本当によかった。ツッコミのキレもよかった。「いい右持ってるね」はケントが相手じゃなかったら生まれなかったと思う。あとバトーの名前間違えてごめん。

ながいこうたさま
 前作があるうえで一番悩んで創意工夫してくれたことでしょう。もちろん仕上がりはながいこうたにしかできないふくちゃんになっていた。最後の贄になったことも相まって、ふくちゃんが今までの人生でどれだけ傷ついた心を抱えながら、それでも周りを安寧に保とうとしてきたのかが伝わり、いい話だな~と感無量である。本番ではとてもいいペースで動いてくれて、何も心配なかった。恐らくあのふくちゃんは、ヒロミを通して失った母性を求めていて、母という永遠の幸せを手に入れたのでしょう。

asyulanさま
 とても楽しみな配役でした。女子大生の役、お疲れさまでした。本人も言っていたが、大学生としてあの場に存在することができたのが良くて、それを可能にした演技力の高さに感嘆している。5人の中で1人だけ10倍の重力で戦っているようなものだし。そしてジリアとして、誰かに愛されたいがため、攻撃的になってしまう様も秀逸でした。もっと暴れていい時間をプレゼントできなくて済まなかったけど、『厭な感じの邦画』とか、私が作りたいものを察して動いてくれて感謝しています。asyulanの演技を一番近くで観られるなんて、私はめっちゃ贅沢ですな。

宮澤さくらさま
 まずツッコミができない役にしてごめんなさい。きっと韮浦初登場時はストレスがたまったことでしょう。今回ヒロミの役をやってもらえて、今まで座・シトラスの舞台で出す機会が少なかったさくらの良さをみんなにたくさん見てもらえたと思う。舞台上のバランスも上手くとっていてくれてありがたい。『きさらぎミッドサマー』では、俺は精神科医・向井条理むかい じょうりの役がやってて一番楽しいので、そこを一緒にできてグッときました。エンディングの居方も輝かしかったです。

 さて、この文もそろそろ終わりである。きさらぎ駅は此岸と彼岸の曖昧さの中に存在する。『きさらぎミッドサマー』は、私と私が出て欲しいとその瞬間思った5人の役者の間にしか存在できない。またあの電車に乗れるのか。それまで、ひとまず閉幕である。

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