『新島夕トリビュート』瑞浪透「Disenchant——「かけがえがない」に殺される!」補遺

 こんにちは。瑞浪透です。
 『新島夕トリビュート』に寄稿させていただいた拙稿「Disenchant——「かけがえがない」に殺される!」について、ちょっと、いやかなり不足があるように思えたので、補遺という形でいろいろと書いていきたいと思います。とはいえ筆者本人によるコメンタリーぐらいに思っていただいて、『トリビュート』片手に読んでいただければ嬉しいです。
 早速、読んでいきましょう。

愛について —— 限りある今日と訪れる明日のために -

——intro -You mean the world to me-

 言い忘れていた、というか編集に「書かなくてもいいんじゃない?」と言われていたので敢えて書くことはしませんでしたが、各節題はPEOPLE1というバンドの曲名及び歌詞からの引用です。そもそもは書くときに思考を統一する目的で、各節の文章を書くときにそれぞれ一曲だけをリピートしていたのですが、節題がなんにも考え付かなかったのでそのまま使用させてもらいました。
 ちなみに、「You mean the world to me」とは慣用句のようなもので、「君は僕のすべてさ」という意味です。

 序文は『Summer Pockets』より、鳴瀬しろはの名前から始まります。これを書き始めた当初は鷹原羽依里と國見洸太郎とを比較して書いていこうと思っていて、その名残とでも言うべき文章です。あまり回収されなかったところなので、浮いてるな、と感じた方も多いかと思います。
 とはいえ考えていたこと自体は結構まとまっていて(僕の思考が尻切れトンボであるというのは、認めます)鷹原羽依里は「出会いと訣別」によって、國見洸太郎は「再会」によってそれぞれ前へと踏み出しているように感じられました。「再会」というのは、新島夕のシナリオにかなり強くあらわされている要素であり、『恋カケ』は言わずもがな、『Summer Pockets』でも新島夕が担当した鴎ルートは、鷹原羽依里と鴎が過去に会ったことがあるのではないか、というミスリードがかなり印象的です。『アイ込め』のヒロインである有村ロミも、なんと愛内周太と初対面ではないというではありませんか(ごめんなさい。未クリアです)。
 既に一読いただいた皆さんには改めていうこともないかもしれませんが、僕にとっても「再会」は非常に大切というか、待ち望んでいるというか。まったく作為なく、偶然にも「彼女」と再会することができたら……と思わずにはいられない。
 閑話休題。
 「誰でもある」僕たち、という表現は、エロゲプレイヤー、読者である僕たちを指します。主人公に同化して主人公の行動に乗っかることにより恋愛をする、主体なき僕たちの事です。なので、当然僕たちが経験する恋愛に「誰でもある」僕やあなたは登場するはずがなく、僕たちが「誰でもある」限りにおいて、恋愛をすることはかなわないでしょう。これは、間違いなく「恋愛潔癖症」の症候の一つです。
 また、「國見洸太郎に、訣別は必要ない」という断定は、今では少し強すぎるように思います。鷹原羽依里が訣別すべきだったものはたくさんありますが、國見洸太郎は國見洸太郎で、訣別すべきものがないわけではないのです。その最たる例が「恋愛潔癖症」であることは、想像に難くないでしょう。
 では、二人は何が違ったのか、という問いについて、今であれば「トラウマの乗り越え方が違うのだ」、と書いたことでしょう。
「自らを取り巻く環境を変える(トラウマから一度逃避する)ことで、トラウマを乗り越える」こと。当時の僕はこれを「夏休み」と表現しました。こういう意味で、「鷹原羽依里には夏休みが必要だった」わけです。
実は僕もこの夏、大学でかなりプライドをズタズタにされる出来事があって失意の夏休みを迎えていたのですが……まあ、今は関係ないことですね。
 本筋に戻って、國見洸太郎の場合は、「トラウマの追体験によりそのトラウマを克服する」という、所謂ショック療法によってトラウマを乗り越えていました。これは実際にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療法として、臨床の現場でも使用されている手法だったりします。
 両主人公ともそれぞれのトラウマ的過去との訣別を経て成長するのですが、こういう違いがありました、ということです。

 なんかそれっぽくなりましたね。この調子でどんどん行きましょう。

魔法の歌 —— 見据えるな 痛ましき日々を

 この短い節は、実は一番最後に追加しました。結果として、「諦める」という言葉がきれいに次の節につながったため、足してよかったなと思っています。本文全体を象徴するような、ミソジニー溢れる文章です。

 introのところでも書いたのですが、断定が強すぎる感は文章全体を通してぬぐい切れません。批評でもなんでもないので、がっぷり四つに組み合うのではなく、サラッと読むくらいがちょうどよさそうです。
ただ、これも僕が当時考えていたことがかなり綺麗にまとめられていて、結構いい文章になっているのではなかろうかと思います。僕は特定の宗教を信じてはいないのですが、うすぼんやりとした神さまとかいうものについてはあったらいいなと思っていて、そういう節操のない感じが随所に見受けられます。
特に内容に関して補足することはありません。

アイワナビーフリー —— ハローそしてグッドバイ!

 来ましたね。これを書いた時のことは今でもありありと思い出せます。待ち合わせしていた人にドタキャンされて真夏の新宿に独り取り残され、急遽入ったカフェルノワールで『銃の部品』までほとんど一息に書きました。この部分が序破急でいう破に当たります。

 「諦める」ということについて。
 僕にとっては「再会」と同じくらい重要なテーマで、ここに書いたことだけでは全然描き切れていないのですが、今でも言語化できていない部分が多く、今後も考え続けなければならないなあと思っています。とくに内容についての補足はありません。

フロップニク —— 思っていたより僕らは大人になれなかったんだ

 これは僕のトラウマです。未だに引きずっています。筆者紹介(?)のところに「僕をこうちゃんと呼ぶな」という旨のことを書いたのですが、この「彼女」(以降鍵括弧外します)が僕のことをこうちゃんと呼んでいたんですね。國見洸太郎は5年。瑞浪透は10年。もはや彼女と再会できたところでトラウマを乗り越えられる確証さえないのですが、
 大事なところはそこではなくて。詳しくは、outroのところで書こうと思います。

 あと、この節の文章としての完成度はおそらく僕の原稿全体の中でも一番だと思います。個人的なお気に入りは退院した日に泣きすぎてゲロ吐くところです。

YOUNG TOWN —— 振り返ったって誰もいない

 このあたりから補足が増える予感がします。

 まず、カナ表記の「オンナノコ」と「女の子」の違いですが、なんとなくカナ表記の方は「ヒロイン」的な使い方、あるいは「キャラクター」や「想像上の彼女」といった「他人」でない女の子を「オンナノコ」と書いていたかと思います(曖昧)。要するに、「『誰でもある』僕たち」に対応する女の子が「オンナノコ」なのです。
 また、「僕が何を言いたいのかはもはや僕自身でも分からない」なんてことは、書くべきではないです。そこから続く説明も、少し的外れだなと感じます。後々に響いてくる内容であるので、丁寧めに補足します。
 全能の神に己が全能でないことを証明させるというのは有名なパラドックス(神に自分が持ち上げられない岩を作らせる、みたいな話)を変形させたものなのですが、これをただ単にパラドックスって普通に両立されるよね、世の中って理不尽だよね、で終わらせるのは少しもったいなくて、要するに世界というものを二次元的な視覚でとらえるのには限界があって、視点を変えること、思い込みから抜け出すことこそがパラドックスを解決するのである、みたいなことまで言えた方が良かったかもしれない。
 それによって、「『運命の出会い』に固執することによって『運命の出会い』を諦めていく」という状況がよりクリアに伝わると思います。

銃の部品 —— 何がホントで何が嘘で正しくて最低で美しくなくて

 ゲロ、吐きすぎですね。前々節でも吐いてた。
 しかし、まず初めに『恋カケ』プレイ開始直後に飯が食えなくなって三日目に気持ち悪くて吐いたら胃酸しか出なかったというエピソードがあって、これを初雪緑茶に話したら「『トリビュート』に書け」となり、結果この文章が出来上がったので実はこれ結構大事な部分なのです。

 実は僕はかなり長いこと「好き」という言葉の多義性に悩まされています。好きな料理、好きな音楽、好きな映画、そして…………好きな女の子。英語でさえもLoveとLikeで区別しているというのに、繊細を自称する日本語はこの体たらくです。
 だから僕は長らく何か対象を取って「好き」を表明することが苦手でした。というか今でもめちゃくちゃ苦手です。テキスト媒体であったりある程度仲の良い友人同士であったりすればかなり気楽に「○○すき」できるのですが、知り合いぐらいの仲や家族の前ではどうしても恥ずかしさが勝ちます。家族の前で、に関しては僕の家庭環境がかなり影響していそうなので一概に同じとも言えないのですが。

“ ああ、いつだって僕から大好きな彼女を奪っていくのは金髪でムキムキで日焼けしたイケメンでセックスが上手いラグビー部の先輩なんだ。エロゲなんて一本もプレイしたことがなくて、ヤらせてくれる女の子なら誰でもよくて、宮沢賢治にもMy Chemical Romanceにも木下龍也にも辻村深月にもフロイトにもスティーブン・キングにも、当然新島夕にだって一切感動することもないし、僕のことはよく知らないけど、とりあえずマジでキモいとだけ思っている。(p.111)”

 最高!
 僕は基本的に自分の文章大好き人間なのですが、「最高!」というところが何個かあって、その中の一つです。卑屈さがにじみ出ててとてもいい。「僕のことはよく知らないけど、とりあえずマジでキモいとだけ思っている。」の最大瞬間風速!という感じが気に入っています。

怪獣 —— 自家中毒なんだずっと 息苦しくなってばっか

 『怪獣』、僕が2022年に最も聴いた曲らしいです。実に643回。これを書いているのが12月の頭なので、単純計算で一日二回くらい聴いている計算になります。PEOPLE1全体では実に12032分聴いていて、原稿を書いている間ずっと聴いていたとはいえ恐ろしいことになっています。同じ曲をリピートする人間は鬱傾向にあるというが果たして……。
 この節では、どろどろした感情を吐露するに合わせて文章も一文一文が長くなってまとまりがなくなっています。案外ニクいことしますね。

 そして、おそらく多くの方が「くまさん柄のパンツ」で頭に?を浮かべたと思われるので、念のために説明しておきます。僕と編集の思い出のゲーム『スーパーロボット大戦OG2』に登場するキャラクターにゼオラという女の子がいるのですが、その子がくまさん柄のパンツをはいているんですね。あるときゼオラがパンチラしてしまって、ポケモンのタケシみたいな顔をした生真面目なラッセルという男が叫ぶんです。

「くまさんパンツだ!!」と。

東京 —— 眠らない街で夢を見る

 ここらあたりから序破急の急です。と言いたいのですが、何というか序破急と起承転結が混じって序破転結という感じになっていて、なのでここから転です。

 『YOUNG TOWN』で書いた神様のパラドックスが回収されます。現実的な僕たちの人生は信じられないほどドラマチックであり、鳴瀬しろはが待っているのは「誰でもある」あなたで云々。うーん、短絡的ですね。まあ嘘なんですけど。

 時に僕は俗にNTRモノと呼ばれる成人向け漫画を嗜好するので、本文中にもそういう文脈がよく登場します。『銃の部品』の「最高!」なパートもそうですし、この節にももちろん登場します。バイト先の汗臭い上司やかんぬん、ですね。
 自己肯定感の低い男こそNTRにハマるのです。自分はダメな奴だと思っているのに、自分がダメであるってことはダメな自分しか肯定してくれなくて、周りからの期待が重くて、ちゃんとした誰かに「お前はダメな奴だ」と烙印を押してもらいたい。そういう欲望を満たしてくれるのがNTRという性癖で、つまるところ、NTRは男をダメにします。

エッジワース・カイパーベルト —— そして僕ら最期の日々をゆく

 第一稿では、『東京』で終わりでした。序破急、で終わっていたところに結をくっつけた結果、序破転結なんて奇天烈なことになってしまったわけですね。
 さて、この節文章としてきれいじゃないです。他の部分には割合満足しているのですが、ここだけは書き直したいくらい気に入っていません。とはいえ、流れを変えずにリライトすることができないタイプなので、甘んじて受け入れます。あと、ここは特に他人の文章の影響を受けまくっていて、読んでいて恥ずかしいです。

 とはいえ光るものはあって、「性欲」についての言及は我ながら結構面白いと思います。補足するのであれば、「性欲」だけでなく「食欲」「睡眠欲」においてももちろんより栄養のあるものを食べる、であるとかより十分に眠る、といったことにより僕たちは選別を受けるのですが、それこそ食欲や睡眠欲によって僕たちを選別する主体は自然=神様なわけですが、性欲による選別は異性によって行われます(性欲について考えるうえで同性愛やその他の性愛についても触れるべきですが、そのほとんどは「子孫を残す」ことから外れているので、あえてここでは語りません)。つまるところ、男の選別を女が、女の選別を男が行うことで、より優秀な個体の遺伝子を後世に残していくわけです。
 しかし、エロゲ的恋愛を渇望し、読者の視座に甘んじている僕たちは現実に主体を持たず、つまりは選別する立場にはありません。この、エロゲ=ノベルゲームにおけるヒロインと主人公の非対称性については、他の原稿でも触れられていたところです。ともかく、選別する主体ではない僕たちと選別する主体である女の子たちとの間には明確な立場の差が生まれています(この差は僕たちが勝手に想像しているだけで、実際には存在しないのですが)。選別される僕たちと選別する主体は、他の欲求において考えれば、人間と神さまのそれと相似関係にあることが容易に想像がつきます。女の子を神聖視してしまう僕たちのあわれ臭さは、まさしくエロゲ的に発生したといっていいでしょう。

 「自分勝手さ」についての記述も甘いな、と言わざるを得ません。「ほどほどに自分勝手であり、ほどほどに気を配るのがよい」なんて誰でも言える内容を、わざわざこんなにダラダラ書くことはないですね。
 さて、僕たちは欲望と規律の狭間で揺れ動いています。あえて「理性」としなかったのは、それが共同体=群れにおけるルールを含むからです。規律を守ることによって、僕たちは群れに帰属し、より安全に生存することができます。それは、社会性昆虫と呼ばれるアリやハチの生存戦略に少し似ています。
 当然、ハチによる群れとしての生存戦略は僕たち人間のそれとは異なります。ワーカーという子孫を残さないメスは巣に奉仕するだけで一生を終え、一部のメス、つまりは女王バチと雄バチのみが子孫を残します。
 ここに、性欲とその他の三大欲求との隔絶がみられます。群れに奉仕する/帰属するということは、規律を守るということは、禁欲をするということに他ならないのです。まれにワーカーが子孫を残すケースも存在するのですが、面白いことにそれは老いた女王バチに対してワーカーがクーデターを起こした場合なのです。遺伝学的には女王バチだけが雄バチを生むよりもワーカーも雄バチを生んだ方が遺伝的多様性を保持するために良かったりするのですが、ここではあまり関係がないので割愛します。
 この短絡を、人間であるのにもかかわらず僕たちは実践してしまっているのです。ハチではない僕たちにとって、これは非常に不健全な状態です。これが「恋愛潔癖症」の症候のひとつであり、恋愛潔癖症者である僕たちはここからも脱却していかなきゃいけないわけですね。

ラヴ・ソング —— 例えば僕があんまり愛を歌わないのは

 この節で書いてあることは、「『誰でもある』僕たち」=「エロゲプレイヤーとしての僕たち」という症候からの脱却です。読者の視座から脱し、僕たち自身が主人公として恋愛をするためにはどうすべきか。そういうことが書いてあります。

Outro (Because I Love You)

 ここにも「最高!」パートがあります。

“ だから、今こそすべてに期待して裏切られよう。今日の僕たちには選択肢があり、明日にはない。全財産をギャンブルにブチ込んで道化師になろう。それはすべてであり、同時にすべてを超える、まさに最強のワイルドカード。(p.117)”

 うーん、最高!

 さて、この節の読解です。
 ここまでで書いてきた恋愛潔癖症の症候は二つ、「『誰でもある』僕たち」と、「禁欲という短絡」です。僕たちが恋愛潔癖症から脱却するためには、少なくともこの二つを倒さねばなりませんが、それはそんなに簡単な話ではないでしょう。例えば、僕が未だ2010年の出来事を引きずっているみたいに。本当に恋愛潔癖症から脱却するには、どうにかしてきっかけをつかまなければならないのです。
 ここにきて、浮いていると思われたイントロの話が効いてきます。僕はトラウマを超えるための二つの方法を二人の主人公を引用して提示していました。そうです。「夏休み」と「ショック療法」ですね。どちらの手段でも恋愛潔癖症を脱却することは可能だと思われますが、これを書いていた時の僕はどうやらショック療法を選んだようです。結果としてどうなるか、それは僕にも分かりません。
 恋愛潔癖症である僕たちが目指すのは、失敗なき完璧な恋愛です。運命的で、かけがえがなくて、甘美で、それはまるで蟻地獄のように抜け出すことのかなわない、僕たちの墓場といって差し支えないでしょう(恋愛地獄、というワードも、活躍の場がなかったですね)。
 僕たちが恋愛をして幸福になるために、僕たちはエロゲ的文脈に固執してしまう悪癖から脱し、身近なひと/もので幸せになろう。結果としてその対象が彼女になることもあり得るとはいえ、やはりそれは、もはやエロゲ的ではない。

 ——それでは皆さん、よき恋愛を!


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