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ようやく排便

 母が転倒して動けなくなったのはお正月の二日。それ以来、2週間。まったく便通なしでした。便秘とは思いませんでした。ほとんど食べていなくてお茶とジュースくらいだから出ないのは当然。そうは思っていたものの、便の半分は腸内細菌の死骸だと聞くし、さすがに気になりはじめました。そろそろ、その時期。
 ポータブルにするとしても後片付けは必要です。バケツ風に取っ手のついたおまるを運んで内容物をトイレに捨てたり洗ったりしなくてはならない。想像しただけで苦痛がこみあげてくるのでした。
 私はパリの認知症老人施設で1年間ボランティアをした経験があります。吐きそうになりながら汚した下着や便器の外にもらしたものなど、排便の始末を散々しています。すっかり慣れてるつもりでした。ところが、自分の親が相手となると、自信がない。
 別種の恥ずかしさがわくのです。触れてはならない、見てはならない領域に踏み込む感じ。同性だから抵抗があるのでしょうか。相手が父ならそれほど抵抗はなかったような気がします。母親だからこその遠慮やためらい。いざとなったらするしかないと分かっていても、覚悟ができなくて、泣きたいような心境でした。
 自分の子供のおむつの汚れなら、下痢だろうと何だろうと、まったく抵抗なしでした。昔は布おむつでしたからバケツですすぎ洗いをして便を落としてトイレに流し、洗濯機に入れる前の下洗いも手でしていました。むしろ便が出ると嬉しかったものです。
 それなのに母の場合は、実際以上に汚いものに感じてしまう。他人の場合よりも、ずっと汚いように思えてしまうのです。母だって恥ずかしいはず。母親の不浄な領域に子が踏み込んではいけない。心にしみこんだ禁忌のなせるわざでしょうか。私はそれだけ母親という存在を、特別視していたのかもしれません。
 転倒から2週間たった朝、母が突然「起きる」と言いだしました。それもただ起きるんじゃなくて着替えると言います。
 嬉しさがわきあがりました。不謹慎ですが、母が元気になったことが嬉しかったのではありません。ずっと交換せずに着たきりだった寝間着やシーツを洗濯できる。それが嬉しかったのです。
 せっかくのチャンス到来。これを逃す手はないので、着替えなんかしても無駄だと思いながらも、手伝いました。履きっぱなしだったリハビリパンツもやめて、普通の布パンツに。
「痛い、痛い、足が痛い、腰が痛い、もう死にたい」
母は例のごとく悲惨な声を出しつつも、なんとか着替え、なんとか歩いて食卓につき、ご飯少々と少なめのお味噌汁を食べました。食べ終えて食器をさげたとたん「トイレに行きたい。肩貸して」。
 着替えた時にトイレも済ませたばかりです。思いださせようとすると、
「今度は大や」トイレで排便すると言うのです。パッと光がともったように気持ちが明るくなりました。
 歩いたことが腸を刺激したのでしょうか。がんばってトイレに行き来すること、午前中だけで3回。その都度排便があったらしく、ホッとして肩の力が抜けました。本当に気持ちが明るくなりました。
 母が起きていた間にシーツも枕カバーも交換できました。パジャマももちろん洗濯しました。シーツが洗いたてのパリっとしたものになったところで母は何も感じていないようでしたが、介護する私には強い達成感があり、ご褒美をもらったような嬉しさでした。
 しかしパジャマのズボンはそのままです。その上からズボンを履くと主張するから、しょうがないな~と思いつつ従いました。
 午後、母が精も根も尽き果ててベッドにもどった時は、寝間着に着替える気力なし。ズボンだけは脱がせたものの、上はそのまま。パジャマに着替えさせることはできませんでした。
 食べることも着るものも、とにかくこの時期は本人の意向に従うしかない状況でした。生きるというのはまさにその人個人に属する問題。どれが正しいという規範はない。他人の目にはどう映ろうと、本人の生きたいように生きるしかない。それが最善なのだと思うようになりました。

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