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いのちを支える

 施設入居で母は一変しました。他人の目の存在が完全にプラスに働いて母を活性化させたのです。見た目も心の状態も、すっかり以前の母にもどりました。他人の目がこんなにも老人を活性化する。いのちを支える。私の想像をはるかに超える力を発揮したのでした。
 入居の初日だけ、母は拒否の態度をとりましたが、翌日からは問題なく適応。家にいた時は今にも死にそうで、自分ひとりでは何もできない老人だったのに、施設では自分のことは自分でできる元気な老人になってしまったのです。劇的というか、一挙に変身。
 しかも冗談を言ったり笑ったりする明るい老人になったのでした。日中のデイサービスにやってくる人たちが、母の明るさにつられて、母のテーブルに一緒に座りたがる。母と一緒におしゃべりしたがる。
 スタッフさんですら、ひっそりとした夜間は母を相手に身の上話をしたりする。母がじっくりとよく聞いてくれるから、それだけで気持ちが落ち着くんだと言っていました。
 完全に以前の母にもどったのです。怒ったり苛立ったりすることもなく、機嫌よく過ごしているようでした。気持ちが後ろ向きだったのは初日だけ。気持ちをきりかえて前向きにすごそうと努力しているのが伝わってきます。母なりに覚悟を決めたということでしょうか。
 他人の存在を意識したのが大きかったと思います。みじめで情けない自分を見せたくない。初対面の人たちに自分を認めてもらいたい。ちゃんとした自分の姿を知って欲しい。
 人間は社会的な動物なのだと痛感しました。友達に支えられるのはもちろんですが、見ず知らずの他人にも実は支えられている。嫌いな人にさえ支えられている。他人の存在なしには、心が生きていけない。他人の目の力を、見せつけられた思いでした。
 私が母に会ったのはコロナ問題をはじめとする諸事情で、入居して3か月後のことでした。私に会っても「寂しい」も「情けない」も口にしなくなっていました。「家に帰りたい」とも一言も口にしませんでした。
 母は車椅子になっています。腰を浮かすことはできても、しっかりと立ち上がることはできません。自分ひとりでは立っていられないので、トイレも介助が必要です。
 自宅だと私をわずらわすことになる。かといってオムツの中にはしたくない。「家には帰らん。無理や。ここにおる方がええ」
 そんなわけで母の施設暮らしは定着しました。この先どうなるかは不明ですが、当分はこの状態がつづきそうです。
 住み慣れた家で最期をむかえる在宅介護は、私が思っていたほど幸せなことではないかもしれない。他人の目に触れることがほとんどないから、在宅では心がゆるやかに死んでしまう。
 他人の目はわずらわしいと同時に、生きる力にもなりうる。いのちを支えてくれる。私たちは仲の良しあしに関係なく、さまざまな不特定多数の他人から、生きる力をもらっている。実に大きな発見でした。
 長々と書いてきました。わずか1ヶ月の介護でしたが、さまざまに興味深い発見がありました。大変なように見えて実際はそれほどでもなく、在宅介護は、実に豊かな日々でした。
 そんなわけでひとまず終わります。今まで読んでくださって本当にありがとうございました。心から感謝しています。

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