死を意識しつつ思う

 私は現在74歳。死を自分の問題として意識する年齢です。残された家族が困らないように準備をしておかなければならないと思い、徐々に終活なども始めています。エンディングノートも作ってあります。
 エンディングノートを購入して書き込んだのはがんの手術を受ける直前でした。がんで死ぬとは思っていませんでしたが、手術中にどんな不測の事態が生じるか分からない。そう思って準備をする気になったのでした。
 私は子宮がんと大腸がん、ふたつのがんを体験しましたが、最初の子宮体がんの告知を受けた時、自分でもがんだとろうと思っていましたから衝撃はありませんでした。やっぱりそうかと思っただけ。感情はまったく反応せず、頭が真っ白にもなりませんでした。
 そもそも異常は感知していたのです。不正出血が続いたので、自分でも子宮がんだと思いつつ、近藤誠さんの「がん放置説」を信じて病院にも行かず、一年間放置しました。
 不正出血は続き、ますますひどくなっていたので、がんに違いないと確信しましたが、近藤さんの『患者よ、がんと闘うな』を本気で信じていたので放置しました。
 「人はいずれ必ず死ぬのだから、手術も抗がん剤も受けずに放置したほうが生活の質を維持できる」近藤さんの放置説は仕事に追われて病院どころでなかった私にとって、とても魅力的でした。
 放置して、いずれはがんで死ぬ。そう思っていましたが、自分が死ぬという実感は全くありませんでした。
 初発だったせいもあるかと思います。つまり、初めてのがん体験でしたから、がんについての知識がほぼゼロ。身近にがんで苦しんだ人もいなかったため、本当のがんの怖さ、大変さも知りませんでした。恐怖を感じるだけの知識がなかったのです。
 がんが死病であるのは知っていましたが、当時の私の死のイメージは、衰弱ののちに訪れるものが死。やせ細って歩くのもおぼつかない人が死ぬのだろうと漠然と思っていたので、がんを自分の死に結びつけなかったのです。放置しているあいだに自然治癒力が働いて、そのうちなおるんじゃないかとすら思っていました。
 ただし抽象的には死を意識しました。自分はいずれがんで死ぬ。死は、そんなに遠くないのかもしれない。そう思ったことは事実です。でも私は死にたいとも思わないけれど、死にたくないとも思っていません。死ぬ方が楽なんじゃないかと思う時もあり、死が現実味を帯びてきたと頭で意識しただけでした。
 頭では死を意識したにもかかわらず、私は自分の死を実感としては感じませんでした。元気だったからです。がんかもしれないけれど、私はこんなに元気。同年齢に比べても、10歳下の人と比べても私の方がはるかに元気。そんな私が死ぬはずがない。本能的な部分でそう思い込んでいました。
 治療前も治療中も、実感としての死を意識したことはありません。手術は眠っている間に終了しましたし、麻酔や痛み止めのおかげで、死を連想するほどの痛みを味わわなかったためもあります。入院中は看護師さんはじめ何かと人の出入りが多くて騒がしかったため、物思いにふけったり感傷にひたるほどの余裕がなく、手術や抗がん剤という医療に守られているありがたさを感じただけでした。
 私はがんを、たくさんある病気のひとつと考えていました。いのちにかかわる病気だから深刻かもしれませんが、他の病気や事故で死ぬことだってあるわけで、がんも病気のひとつにすぎない。
 生きていれば思いがけないことがいろいろある。病気にだってもちろんなる。病気は人生の一部。がんだって人生の一部。

 がんに呑みこまれて生きたくない。死を意識するからこそ、生きることを何よりも優先したい。
 がんは深刻な病気かもしれないけれども、暗くなって運命をなげいていても意味がない。他の出来事と同様、がんにだってマイナス面もあればプラス面もある。
 私はがんのおかげで、今まで知らなかった世界を体験しました。がんにならなければ開かれなかった世界が開け、喜びにあふれる体験もさせてもらいました。痛いとか苦しいとかのマイナス面と、がんになってから味わってきた喜びを比べると、明らかに喜びの方がまさっています。がんにならなければ体験するチャンスのなかった喜びばかりです。
 大変な病気であるがんにも、実は様々な喜びが隠されている。我々がん患者にとって大切なのは、病気と向き合うことと並んで、闘病生活に隠れ潜んでいるさまざまな喜びを、可能なかぎり発見することではないかと思うようになりました。
 生きていることは、豊かです。がんになってさえ、豊かにあふれる喜びがあります。最優先すべきは自分の人生を最後まで生きること。がんには生きている豊かさを消し去るほどの力はない。そう思います。

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