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自分史 - 修士課程退学まで

私は特に面白い人間ではないと思うが、何かコンテンツになればいいなと思って大学生活のことを書く。後で見返して面白がれたらいいなと思う。

小学生

小4の時に家にあったパソコン(Windows 98 SE)を使ってワープロで何か物語を書いていた気がする。昔話のパロディ。

小学5年生だったと思うが、家族が「ピンズラーアメリカ英語」という英会話教材を買ったので、それで英語の勉強をはじめた。耳から入る教材なので、リスニングと発音が鍛えられてよかったと思う。

中学生

中学の時は何をやってたんだろう?インターネットにのめり込んでた気がする。

ブロードバンドがやってきた。それまではダイヤルアップだったので、一ヶ月の電話代が1万円超えたり、電話が繋がらなくなるので怒られたりした。

中3でLet's noteを買っ(てもらっ)た。

高校生

高校は地域の公立校に行った。勉強もいい加減にやってたので成績もあまりよくなく、中の下くらいだったのかもしれない。

使ってたLet's noteにUbuntuを入れて使い始めた。また、Dvorak配列を使いはじめた(今はもう使ってないが、打つことはできる)。親指シフト(NICOLA)や漢直(TUT-Code)もこの辺りで練習を始めた。

そんな高校生活も3年目になると大学受験が待ち構えている。受験するのは関東にあるあまり知名度の高くない国立大学の情報工学科を選んだ。まあ浪人してもいいかという感じだったので滑り止めは受けなかった。

センター試験当日朝に『ひだまりスケッチ☆☆☆(ほしみっつ)』の最新話を見ていたのだが、オープニングで「ほしみーっつ、おーちーたー♪」と歌ってるのを聞いていたら大学にも落ちた。

2次試験の結果を見てみたら、最低合格点数に2点足りなかった。他の学科はもっと合格点数が低かったので、第二希望書いとけば受かってたらしい。他の学科行く気なかったのでいいんですが。

浪人時代

合格点に足りないのが2点なら、1年かけて2点上げれば受かるという寸法だ。気楽なものである。宅浪して家でのびのびとやりたいようにやりたい勉強をやっていた。

受験勉強はZ会の大学対策のコースをとって、一日4~6時間程度やってたと思う。

宅浪だと自由に時間が使えるので、タイ語の勉強を始めた。一日2時間程度やっていたと思う。『ニューエクスプレス タイ語』や『タイ語読解力養成講座』を読みながら自習した。今でもタイ文字はある程度読み書きできる。
他にもNHKのラジオ講座でロシア語と中国語をやっていた。ロシア語は今でも続けている。

6月には16kgの梅を漬けて梅干しにした。塩分20%の昔ながらのやつである。赤紫蘇が3.2kg必要だったけど、知り合いで赤紫蘇つくってる農家にそれだけ購入できるか聞いたら断られた。それはそう。
祖父が梅干し好きなので、私が大学に行って作れなくても困らない量を作ったのだが、死んでしまったので死蔵され、腐るのを待っている。とはいえこの塩分量では腐らないので、自分の墓までもっていくことになるかもしれない。


結局、去年と同じ大学の同じ学科を受験した。第二志望の学科にも何か書いたのだけど、それは第一志望の学科より合格最低点が高かったので書いても何の意味もなかったことは後でわかった。

他にも私立の滑り止めを受けた。滑り止めで落ちると辛いのでレベルはやや低めのところにした(その大学の教育のレベルが低いという訳ではなくて、むしろ厳しいくらいだったりする)。センター利用で普通に受かったのでよかった。

結局第一志望に受かったので、よかったねという感じ。物理・化学はろくに勉強してなかったので下がってたが、英語と数学でカバーした。

まあ、宅浪して成績下げて同じ大学に受からない人の方が多いので、宅浪はあまりおすすめできるものではないと思う。宅浪してた友人は落ちてたし。

合格が分かり、住むところ探さないと、ということでとりあえず学生会館を見学に行くことにした。2011年の3月10日のことである。日帰りにするか泊まりがけでいくか迷ったのだけれど、日帰りにした。そういうこともある。

大学

入学式は中止。オリエンテーションも中止。そういうこともある。

入学祝い金を使ってタイ語大辞典を買った。3万円也。大学生協の組合員は1割引きで買えるので3000円の得をした。

大学1年の頃は授業には出ていたがあまり真面目に聞いてなかったこともあり、数学などの単位を落としていた。その後もフル単は難しく、申請した単位を全部取得できた学期は3年の前期が初めてであった。その学期は40単位申請していた(年間で申請できる上限は60単位である)。

選択必修の第二外国語はロシア語を選択した。選ぶ人が一番少なそうだったからである。すでにかじっていたのでノー勉でも何とかなるだろうという目論見もあった。ロシア語は必修でなくなった後も授業を取り続け、単位を取りつくした後も講読の授業を受け続けた。最終的にマンツーマン授業になったので非常にコスパがよかった。毎週予習に3-6時間程度使っていて、よく前日は徹夜していた。

大学4年の頃、アルバイトを始めた。ロシア語能力を活かすことができるバイトなんてあるんだ。

3年までは基本的にはバイト等をせず、奨学金で生活していた。そのため返済しなければならない残高がウン百万円ある。どうしようね。

3年の時に古典ギリシャ語の授業が爆誕した。正確にはその前年から大学院課程の授業として存在していたが、その年から学部でも単位として認められることになった。これを受講して一年間初級文法をやった。その後も講読会で原書講読をした。

全体として学業はいい加減にやっていて、地の利を生かして文字・フォント関係の講演会やセミナー、クラブイベント、声優イベント、サブカルイベントなどにそこそこよく行っていたと思う。東京は楽しい。

3年ころから精神が怪しくなっていた気がする。メンタル面については精神科への通院を含めて別にまとめた方が良さそうな気がする。

4年になり研究室に配属された。研究もあまりしなかったのだが、なんとか卒論をでっちあげた。

卒論発表当日は一日寝ていて行かなかった。眠かったので。そういうこともある。発表を改善したいが手を付ける気が起きないまま徹夜していて限界だったという感じ。その時はそのまま退学するつもりでいたが、なんだかわからないけどなんとかなった。この回避策は進捗が無くても寝ることである。

学部卒業後、修士課程が始まるまでに運転免許合宿に行った。仮免の学科試験は満点とれたので、こういう試験は向いてるんじゃないかという気がする。

修士課程

修士課程1年の頃、とあるロシアの大学とうちの大学が協定を結んだ。その関係で、2ヶ月間の短期留学を募集しているらしかった。向こうは大学院大学なので参加できるのは修士課程以降の学生のみ。
うちの大学で申し込んだのは私一人だけだった。向こうの大学自体も設立してから年が浅かったので、そこの日本人留学生第一号となった訳である。そういうこともある。
留学時には向こうの大学が生活費相当の奨学金を出す(月80000ルーブル)ということだった。往復の飛行機のチケットはこちらで用意したものの、向こうが用意してくれる手はずだったらしい。損をした。私が海外に行ったのはこれが最初で最後である。

向こうの大学では授業はすべて英語で行われる。しかし食堂や、一歩外に出ればロシア語しか通じない世界である。授業には出ていたが課題等はあまり丁寧にはやらず、街に出て本屋を回ったりしていた。途中、精神が不安定になり休日に出かけもせず、iPodに入れていた『結城友奈は勇者である』を見ながら泣いたりした。また、市場で彩色してないマトリョーシカを買ってきて(帰国後に)うまるちゃんにした。

https://www.pixiv.net/artworks/56049007

ちなみに翌年もその留学の募集があるかと思ってうちの大学の留学の募集を定期的にチェックしていたのだけれど、存在しなかった。

留学時の話は稿を改めて書くことになると思う。


留学から帰ってきた後、その学期の残り3か月は休学にした。授業受けるにしても中途半端になると思ったからである。

学部3年のころ3Dモデリングをちょっとやっていた関係もあり、休学中にコンピュータグラフィックスを勉強した。
使っていた教科書はこれ(の旧版): コンピュータグラフィックス
勉強後、力試しだと思ってCG-ARTS協会のCGエンジニア検定 エキスパートを受けたらまあまあいい成績だった(控えめな表現)。

その後1年半はほとんど研究室にも行かず、研究もしなかったが、授業には出ていた。修士課程の標準修業年限が過ぎた後は休学にし、休学できる最大まで粘った。休学中に第二種電気工事士の資格を取ったり、オトカドールに2万円突っ込んだりした。

その後実家に戻って退学した。修士論文以外の単位は取ったので、修士課程単位取得満期退学と言いたいところだが、そうは言わないのが普通である。
まあ、研究向いてないなあと分かったので良かったのかもしれない。

現在、会社に勤めているわけでもないが、奨学金という名の借金だけが残っている。どうしよう。人生は続く…

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