世界の半分の国が「敵」だった時代
今の若いひとに、その雰囲気を伝えるのはとても難しいのだけれど、ソ連があって、東側諸国があった頃の世界は、今とは全く違うものだった。
今、わたし達は、行こうと思えばどこにでも行けるとぼんやりおもっているし、戦争でもしていなければ人はそこまで敵対していないし、しないものだとおもっている。しかし、世界が東西に分裂していたあの頃、その壁の向こう側に行くことは特別な意味を持っていた。おそらくどちら側にとっても。そしてその深刻さは同じような重さであるわけがなかった。
人々は思想を同じくしない国が自分たちと同じ体制に変更されることをぼんやりと望んでいたし、なんなら相手側はそもそもマインドコントロールでも受けているくらいに思っていたから、目を覚させなければくらいに考えているひとが多かった。そんな中、対立する勢力側の思想をよしとするひとは自国の大きな体制変更、言わばなんらかの「革命」を望んでいたのだった。
互いが相容れず、門を閉ざし、そこを越えて入るものは己の体制を良きものと思えるように「指導」するというような構えがあった時代。だから、行く側も迎える側も強く身構え、実際、今のような自由な往来が可能なわけではなかった。西側が自らを「自由主義陣営」と称するのは、そうした相手側へのアピールでもあった。
例えば、今、わたし達はどこかの国に行って、そこで過ごすことで「取り込まれる」というような感覚を持っているだろうか。それに近い感覚を想像すればカルト的な宗教組織くらいしかイメージできない。ソ連があったころ、少なくともゴルバチョフ体制の前までは、壁の向こう側をぼんやりとそんな風に考えていた。それはお互いそうだったのだろう。あちら側は自らのやり方が歴史の進行の必然だとおもっていたのだろうし、こちら側は自分たちのやり方が人間の欲求の最大化と分配の必然だとおもっていた。
わたしは一度も社会主義、共産主義国家に憧れを抱いたことがない。学生運動の時代だったり、その前のひと達のなかには、向こう側に「地上の楽園」を夢見るひと達がいたことは知っている。それは世代の違いで、わたし達の住むこの島々が今より圧倒的に大変だったころ、そしてその種の思想と実践が目新しかったころは、そこに希望を抱いたひと達が多くいたであろうことはわかる。しかし、わたしが子どもだった頃にはすでに、あちら側から伝わる映像だとか亡命者のことばのなかにある日常はぼんやりと薄暗く、それに対して公的に発信される輝かしい革命の成果なるものの中の笑顔の、まるで絵に描いたようなあり様を比較して、ここには深刻で決定的な欠落があると感じていたのだった。
しかし、そんな存在が、わたし達の属する資本主義なのか自由主義なのかを信奉する勢力と同じくらいの広さで在って、わたし達のあり方を誤りだとして認知していて、それを正さんとして軍備を積み重ね続けている。それがソ連崩壊以前の世界の、ぼんやりとした感覚だった。そしてそれがご破産になったあと、世界に僅かに残る社会主義国家の存在は、それらの国の国内的な統治体制のはなしでしかなくなった。そして、それらの国々もまた、経済的にはわたし達の世界の一部であることで成り立っている。それは資本主義や自由主義の勝利とかいうはなしでもなく、社会主義体制の目的が設定する経済や自由では近代以降の人の世が成り立たないということなのだろうとおもう。
わたしは社会主義に憧れがない。しかし、もし、それを選択しなければならないとすれば、わたし達全体が、今から比べても相当のレベルで貧しくなることを選びでもしなければ全ての日常がもたないような状況に限られる気がする。例えば、わたしは昭和の人間だから、少なくとも、子どもの頃の風呂もない長屋暮らしのレベルであってもその選択はしない。それくらいに、リアルタイムで見聞きしてきた社会主義国家のあり様は重く鉛色がかっていて、国防色の戦前と同じように、とても暗い気持ちになる。
そうした存在がなくなった今は、左右がなく、前後と上下で世の中を見晴らせてしまうような感覚の中にいるのかもしれない。だからこそ、妙に左右という軸が、それを現実化した存在がない分だけ、声のあげどころとして空想的に肥大して依拠しやすくなっているのだろうかとおもったりする。
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