否定肯定

否定神学、という方法論がある。「〜ではない」というもの言いでしか語れない「ありよう」を通じて神を語る、いや神を称えるしぐさと言えばいいだろうか。
世の中には、とかく否定的なことばばかり吐いてしまうひとがいる。それを真に受けると彼の世界は破滅しか残らなくなるのだけれど、そのことばを杭のようにして立てていった場所を遠くから見つめると不思議となにかの輪郭線のような絵柄が浮かび上がることが多いと感じる。ことばの結界によって、何かを守ろうとしている姿は、多かれ少なかれ否定神学のかたちをとる。
そういう意味では、これは本人や近隣の人間には自覚しにくい目的論となっている。言いかたを変えれば「ためにする」というはなしだ。そして、純粋なありようを好むひとはこうした「ためにする」ということを嫌う。イメージとしては、目的遂行のためには手段を選ばないというようなあり方がそうなのだとおもうが、ややこしいのは、例えばその極端な目的遂行意識の中に逆に純粋さを見つけて好ましくおもうひともいるところで、「世を拗ねた」と言われるのはそうした捻りかたの様々なありかたに他ならない。
「ない」を通してしか語れない「ある」を信じるひとは、いきなり「ある」を語ってしまえるひとに何とも言い難い感情を抱いてしまう。否定神学は、神を否定するための方法論ではない。あらゆる手段を用いて、神がある、ということを語る。その絶対的超越ゆえに、わたし達の把握では辿り着けないということ自体を通してそれを行う。しかし、ひとは往々にして、その先にある神ではなく、「語り得なさ」そのものに執着してしまう。気がつけば、「語り得なさ」の極に辿り着こうとする純粋な希求そのものに意識が集中してしまう。
こうしたロマン主義的心性を乗り越えるものとして「他者の外部性」みたいなことが言われるようになるのだけれど、それこそまさに否定神学的にしか語り得ない神と同型になってしまうというのが皮肉としか言いようがない。外部と言おうが、他者と言おうが、このどうしようもなく閉ざされたなかで語られ続ける構図があって、そのなかであらゆる「他人ごと」を我がこととして「想像力をもつ」という受苦的姿勢を膨らませ続けるという、剥き出しの神経で生きよとでもいうようなあり方は、同時になにかを捨象しないと成立しない。そういう議論や、そこから派生した行動を、わたしはなんとなく「出家的」と呼んでいる。
人文的なものを好むひとは、そうした出家的な純粋さに誠実な感覚を覚えやすいようにおもう。わたしはそれを精神的出家者同士の共感だとおもっていて、なるべくその場に居合わせることを避けている。出家者ばかりで集まってしまうと、誠実さ合戦になって何もいえなくなることが多くなってしまうのをわたしは何度もみた。肯定神学が申告合戦になるのと一対になっているのかもしれない。出家イメージからの連想妄想をもう少し膨らませると、いまは出家者の僧兵化と一向一揆のシステムのことを重ね合わせて考えたりしている。
そしてわたしは、出家ではなく、在家であることとはなにか、をよくおもう。在家的なものの究極は出家ではない。もしくは、出家的な理念を内に秘めながら俗世をやり過ごすというのも、結局は出家者的な価値観なのだろう。在家の論理はそんな風に純粋な核を守ることをもってよしとするようなものではないと、いつもぼんやり考えている。

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