性善説

わたしは性善説を採っている。今まで書いてきたことを読んでくれたひとからすれば「?」かもしれないけれども。
厳密にいえば「善」ではないのかもしれないが、満足や納得、得や利、プラスのようなことまで含めて、わたし達は選択のなかで自分自身を含めた誰かにとって、何かにとっての「よきこと」以外の選択ができない。これがわたしのおもう性善説だったりする。
誰かに苦しみを与えるとか、何かを破壊するとかいうことも、己の快に向けて舵がきられている。これは自分以外には悪や害であっても、自分自身に対しての施しのような行為になっている。自己破壊もまた、そうした選択でしか何かを確信できない人間の行いで、どうあっても何らかの肯定というか、プラスというか、そちら側に傾いてしまう。ひとは、言語や象徴化の能力を得たことで、あらゆる行為を反転させて意味のベクトルを変更させることができるようになってしまった。
例えば、今を耐えて明日のため、未来のために投資するといったものの捉え方があって、その果実を手にする日を後ろに後ろに繰り延べさせればいつまでも今から目を背けることもできる。しかし同時に、それを成長のための行と捉えればその苦しみを耐えた経験は心身の筋力となって蓄積されていく。逆に、今を好き勝手に楽しむということは、蓄積と成長の世界観を生きる人間からすれば堕落であるのと同時に、自らを支えるもののない場に身を投げ出す恐怖を伴う行為でもある。そうかんがえると、積み上げの成長に安心を感じるひとにとって、全てを手放す生き方は自分が唯一選択しなかった経験になる。どんな選択にもアキレスの踵のような一点が存在する。
わたしは、どうやってもなんらかの意味で「よきこと」しか選択できないという部分がそのアキレスの踵であり、性善説なのだとおもっている。では性悪説はどうか。実は、以上のような性善説を立てると、性悪説は「それによって害を受けたものからみた世界」のはなしになる。要は裏返しになっている。客体であることを維持した上での主観、もしくは客体であること自体をよりどころとした位置取り、というか。そして、その性悪説を採ると、主体としての行いは全て「力」の行使になり加害を背負うことになる故に、自らの加害を最小化するためにも、前回書いたような意味での「出家的」な生を選択せざるを得なくなる。そうした選択のあり方を、わたしはぼんやりと「原罪的」なあり方と呼んでいる。
そうした原罪的なものを背負い込んだ性悪説を想像すれば反出生主義などがあらわれることは当然の帰結といえる。わたしの生がその存在分この世界を圧している、という発想。そして、そもそもわたしは生まれるということに同意していないという契約をベースとした思考。しかし、そもそも生は契約でもなんでもないことは明白ではないか。
性悪説はある意味では主体に対する復讐のようなかたちを採る。あなたが選んだ行い、「よきこと」はわたしをこれだけ害したのだ、と。しかし同時にかんがえる。その訴えを発するということは、「よきこと」に対して言えば「あしきこと」として意図し行われたものなのだろうか。思いを伝えることよって何かを変えようとすることは、なにかのマイナスを意図して行われたものなのだろうか。わたしはどうやっても「よきこと」しか行えない、というのはこういうことまでを指す。その「よきこと」が誰かの「あしきこと」であろうとも、わたし達は「よきこと」以外可能ではない。行いは結果に先立つ。わたしの言う性善説は行いがはらむ論理なので、生きる以上逃れることができない。

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