力とはなんだろう

昔、松本健一という研究者がいて、昭和の超国家主義などについて色々と書いていた。人によっては、民主党政権時の内閣官房参与だったことを覚えているかもしれない。このひとが大川周明について書いた本の中に忘れられない一節があった。それは日本の植民地支配に関することで、もちろん松本は戦前の日本のそうした帝国主義的なものが生み出した暴力や支配を否定するのだけれど、同時に植民地となった土地に住む人々をその場の旧政府が「守れなかった」ということ、弱さにまつわる罪は問われなくてよいのかということを書いた。これはとても重く深いはなしだ。今の時代、弱さを断罪するようなもの言いはほぼ不可能に近いだろう。例えば、いじめられっ子の弱さは罪か、などという文脈に短絡されてしまう。しかし、これはそんなはなしだとはわたしには思えない。
幼子に庇護者が必要で、わたし達には政府や法が必要なのは、そもそも個々の人間の生は圧倒的に世界に剥き出しになっているという事実があって、そこにパターナル、マターナルなどと属性のフィルターをかけようとも、何かの「力」によって守られなければ、わたしであるということですら奪われてしまう場面や期間があるからだ。家族はその最小単位の自衛集団で、それら同士の衝突の調停は国家という暴力の集積装置の威力によってなされている。そして国家もまたある領域内の人間による他勢力に対する自衛集団だけれども、ではそれら同士の紛争に立ち入れる上位的な存在があるかといえば、国連の存在を認めた上でも現実的には「ない」というしかない。あるのは、今もなお、欧米プラス数カ国の「大国」の威力そのものでしかなく、わたしは生まれてから今までずっと、テレビや新聞雑誌でそんな光景を見続けてきたし、今もそれは変わらない。そして、小国はそんな剥き出しの「力」の渦のなかで、ありとあらゆる方法をもって生き残りを模索するしかない。
そうした意味で、戦前の日本は蒸気船と大砲によって国を開かされ、その恐怖の反作用から周囲を力で併呑することによって生き残り、そのこと自体の維持の必要のためにさらなる拡大を求め、自らのキャパシティをはるかに超えた力を夢見て敗れるべくして敗れた。結局、松本のいうような意味で「守れなかった」のだ。そしてわたし達は、そうした戦前のありかたを常に非難し続けている。 わたし達は「強さ」が目の前にあらわれることを嫌い、警戒して声をあげるのだけれど、自分達のみえないところで常に今を維持し守り続けてくれる存在を強く求め、それが揺るがされるとパニックになる。
わたし達は自分の人生が実のところ剥き出しの存在であることに耐えられない。だから庇護者を求め続ける。国家による社会保障も結局その一形態で、そして、その責任を負うのは誰かということを、常に上に、上にスライドさせていく。「力」を暴力性の源として恐れ、それを持つものを常に戒め続け、縛り続け、理や知がそうしたものへの抗いとして尊ばれる。しかし、そんな環境そのものを支える「力」が無尽蔵に溢れる状況自体が、極めて限定的なものだったことは、バブル崩壊以降、ますます明らかになってきているとおもう。
そうかんがえた時、今の世に溢れる様々な怒りや苛立ちの多くは、「力」がわたし達に与えられていないじゃないかという種のものか、わたし達を支えていた「力」がなくなったから誰かはやくなんとかしろという身も蓋もないはなしに短絡されてしまい、または、あれもこれも「力」だ、マッチョイズムだと指摘し続ける警告者になってしまう。読書がマッチョだとまで言い出すひとがあらわれる今、「弱さ」を語ること自体がシンボル誇示のマッチョイズムだとされることもまた不思議ではない。そこまでくると、ここに溢れているのは去勢への欲望でしかないようにみえるのはわたしだけなのだろうか。
ひとは「力」に怯え、その怯えがもたらす去勢に怯え、そのループを延々と繰り返し続ける。どちらのモードが優勢かで、ひとは自分の立ち位置を右往左往することになる。わたし達はその中で、どこかで、マッチョイズムに対する批判の可能な範囲を定めている。ある意味、底のようなものを想定している。それはどこかで、自分自身を成り立たせているものの存在を知っているからなのだ。しかしそれを、角を矯めて牛を殺す式に、「力」が持つ威力の存在そのものを全否定してしまうと、わたし達はほんとうの剥き出しになる。最初に戻れば、それこそが松本健一のいうところの「弱さ」の生み出す結末なのだとおもう。

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