時代の雰囲気。覚えていることなど①

前回、「する」と「させる」ということを、ポツポツとかんがえたことを書いた。わたし達の「する」はどうしてか「させる」を内包してしまい、他人のふるまいを告発「する」かたちで他人のふるまいを変え「させる」ように動く。それの後ろ盾になるのが「社会」正義になるのだけれど、それは隣組的、「空気を読む」的な同調圧力と、ほんとうの意味でどう違うのだろうか。
わたし達は、政治は変えられないけれど、「社会」は変えられる、とおもっている。わたしは全くそうおもわない。結果の反映でしかない「社会」なるものはそもそも人為によって変えることはできないが、政治体制はそもそも人工的な構成物なので変更できるように設計されている。政治は、わたしの思ったようにではないにせよ、決められた年限で投票が出来、立候補も出来、候補や政党を後援も出来る。わたしが間接民主主義を良いものだとおもえるのは、わたしの意見が直接「届かないこと」そのものであり、そのこと自体に込められた深い知恵にある。しかし、多くのひとは、その「届かないこと」そのものを憎む。故に、平成は政治改革の時代になった。そしてそこに限界をみたひと達は、より直接的な地方政治に目を向けていき、東京も大阪も、こんな感じになった。
以前にも書いたけれど、80年代後半から90年代、多くのひとが政治に無関心だった、という指摘は当たらないとおもっている。戦後すぐの状況をのぞいて、唯一与野党逆転を引き起こしたのは、ニュースステーションやら、朝まで生テレビやら、サンデープロジェクトやらで政治意識を掻き立てられた層があったからこそで、あの時に渦巻いていた「変わる」という妙な実感は、「政治意識が高まった」といわれる現在全く感じることはできない。
それとは別に、特に政治に無関心というよりも、政党や運動と距離をとる感覚があったとおもう。特に文化人、作家、学者にそうした空気感が強く、それは端的にそれ以前の、例えば学生運動だったり、与野党限らず特定政党のスポークスマンじみた発言をするあり方から脱却していく時期だったように感じる。学生時代、論文を書こうとおもってある作家に関する研究や批評をかき集めて目を通すと、その活動が運動にいかに資しているかだとか反しているだとか、そんなタイプの文章がたくさん出てくることに心底ウンザリした覚えがあるし、そういう空気が支配していた時期が確かにあって、そういう熱にうなされた時期が終わったとて、その後そうした文章を書いていたひと達がある種のポジションに立って声は出さずとも幅をきかせていた時期があったことをかんがえると、80年代の文化人達の政党や運動離れは、若いわたしなんかにも最もなことだとおもえた。
その時期、ふんわりと漂っていたのは、「朝日・岩波文化人」という言いようで、今そういうもの言いを聞けば、すわネトウヨか保守かとイキリたつひとも多いだろうけれど、当時は左派の人間こそそういうことを口にしていたということは覚えておいてよいとおもう。今の時代、体制への反抗をかたちにした学生運動の時代を称揚する向きもあるけれども、そうした闘争はなにも政府与党や大学当局のみをターゲットにしたものではなく、既存の左派政党だったり教養主義だったり、闘い方を同じくしない別グループだったりも闘争の対象だったのだ。運動の時代が終わって、ヒッピーからヤッピーへといういい方もよくされた。結局、大学に職を求めて、この出版社で本を出せれば上がり、みたいなアフター学生運動の諸々があって、また一つ何かの体制の礎石になっていくあの感じ。だからこそ「朝日・岩波文化人」といういい方が罵倒になり得た。
今、わたしがまだ若かった80年代や90年代に、わたし自身が感じていたような、組織や運動に関わるということへの根本的な抵抗感や違和感が、若いひと達の中には薄かったり、下手すればなくなっていたりするのだろうか。しかし、それがあの時代の、思想やら批評やら文学やらに夢中になっていたわたしのような、「時代がもたらすアップデートを信じる人間」にとって、知的に冷静であろうとする態度の典型だった気がする。わたし達は「社会」の力が、因循姑息な保守からも、権威主義の左派からも振り回されない「場」をつくることが可能だとおもっていた。そして、それは徐々に自壊していくことになる。

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