やましさ

最初に下山事件のことを知ったのは松本清張の本だった。『日本の黒い霧』を読むと、ああ世の中は陰謀陰謀また陰謀、という感じになるのだけれども、清張作品の面白さはそのスレスレ感というか、向こう岸に乗り出した感にあるので、そこに収録されていた下山事件論もまたすこぶる刺激的で、すこぶるあやしい。
下山事件について書かれた本は何冊か読んだ。結論が出たわけでもないのでなんとも言えないのだけれど、今のところは柴田哲孝の本が「決定版」のような扱いになっているのだろうか。この作者の本が出る近辺に同じ題材で、新聞記者の本、ドキュメント作家の本と続いたが、これらの諸作はつながっていて、色々とややこしい経緯があって関係決裂したなかで生まれたようだ。どの本も読んだけれど、なんとも後味の悪さが残った。特にドキュメント作家のものは羊頭狗肉感がひどかった印象だ。
下山事件の怖さは、正直、誰が手を下していても、どこが背後にいても全く不思議ではないところにある。この勢力はさすがに手を下さないだろう、こいつらはそんなことする訳がない、という安心感が全くない。日本政府も、GHQも、左派組織も、利権に関わるひと達も、こんな言い方をしては元も子もないが、何をやってもおかしくないくらいに、信頼感がない。いや、組織や、こころに強く信じるものがあるひとなら、やりかねない、という信頼感があるとも言える。つまり誰が主犯でもおかしくないので大迷宮なのだ。
わたし達は敗戦後の焼け野原と闇市は教科書的な知識として想像できるのだけれど、その次の時代のイメージがなんとなくぼんやりしている。例えば、わたし達は戦争で何もかも失った、ゼロからやりなおそう、なんていうドラマ的設定はよくあるけれど、ではゼロで今日、明日、どうやって生きてきたのか、具体的なことは描かれない。闇市云々というが、闇市で買うにもカネがいる。交換できるモノがいる。それはどこにある何なのか。それが出てこないまま「何もかも失った」というはなしだけが繰り返され、靴磨きの子どもの光景に印象を代表させて終わる。
そういう意味では、わたし達は朝鮮戦争とその時代というものをあまりに知らなすぎるのかもしれない。何かあると戦前的なものへの恐怖とか不安とかは持ち出されるのだけれど、わたしはいつも敗戦から朝鮮戦争あたりまでの状況や、そのなかに潜む疚しさのようなもののことを考える。『日本の黒い霧』は「謀略朝鮮戦争」で終わる。清張には「黒字の絵」という作品もある。清張はベトナム戦争以前の描写のなかに強い力を持つ作家だ。わたしは今も、ベトナム戦争から先の現代とは違う、語られていながら何かうまく伝わっていないあの頃のことが気になって仕方がない。
食糧難の中、闇米に手をつけることをよしとせずに衰弱死した山口判事。昔、調べものがあって当時の雑誌などを読んでいたら、そんな山口のあり方を、硬直化した思想の結果だと非難する一文を見つけた。筆者など思い出せないのだけれど、保守派というより革新系の紙面だったことを覚えている。現在、闇市に関する文芸作品を集めたアンソロジーが編まれていて、ああした場の混沌の中になにか解放の根源を覚える、ということを作家は書いているのだけれど、先程あげた判事餓死の話題に批判的な視線を向ける空気の中には、そういうものが背景にあったのだろうなとおもった。敗戦後、割腹による集団自決を遂げたひと達がいた。その中にある死への意志力を考えたとき、「ヤミ」は、なんていうか徹底的に生の渇望なのだなと感じる。だからこそ解放でもあり、疚しさなのだろうか。『はだしのゲン』の戦後。『アメリカひじき』の戦後。ラジオ『小沢昭一的こころ』で語られた戦後。『血と骨』の戦後。
下山総裁が死んだこと、死なねばならなかったということ。下山事件は、どの勢力が黒幕であっても納得できる立ち位置にあるが故に、いつまでも陰謀として語られ続ける。それは、あの時期、あの渦中にいたひと達の生の成立のために、立ち位置の異なるあらゆる勢力から死を願われてしまったという悲惨があるからではないか。あの時代の疚しさが下山事件を忘れさせない。

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