広く、遠く

松岡正剛が亡くなった。
SNSではいろんなことが言われている。言われるだろう、ともおもっていた。自分自身がそこそこに年齢を重ねると、ひとの死と、そこに重ねられることばの関係を、そこそこ見ることになる。このくらいの年齢のひとならこういう言い方をするだろうとか、こういう職種のひとならこういう反応をするだとか、そういった諸々を再確認させられ続けるのが加齢ということなのかもしれない。
松岡正剛の方法論を好まないひとがいるのはよくわかっている。このひとがサジェストすることがどういう効果をもたらすか、みたいなことで松岡を嫌うひとがいるのも。そういう意味では、松岡は学者だともおもわれていないし、批評家だともおもわれていないし、作家だともおもわれていないし、もちろん本人もそういう名乗りをしなかったし、全てひっくるめて「そう」なのだとおもう。そして、ひとは研究や作品制作、もしくは思想のような明確なかたちや輪郭を残さないありかたに対してとても冷たい。
ものごとをどんどんと繋げていく、いや繋がってしまう可能性の枠を追うということ。助詞的可能性の世界。対して、研究はある種の限定の作業であって、その限定自体が別の自由を生み出すとしても、地固めために何かを削りとっていく作業を繰り返し続ける。そうした視線からすれば、松岡の中の事象の連環は、いつになっても学的な証明の手続きをするつもりのない仮説の束を膨大に積み上げただけなのかもしれない。書痴、のようなひとたちがいる。種村季弘も、高山宏も、荒俣宏も、そうした連環の知を生きた。澁澤龍彦も、松山俊太郎も、遡れば井筒俊彦も、幸田露伴もそうしたコスモロジーというか、広さの構想を抱いていたようにおもう。
深さと広さは、そもそも対立しているわけではなく、ただただそういうあり方であるはずなのだ。しかしなぜか、広さという価値に狭く囚われたこころは深さを耽溺と思い、深さという価値に浅く囚われたこころは広さを軽佻と決めつけてしまう。昔、売れた音楽が価値があるのなら、マイケルジャクソンや小室哲哉の作品が最高の音楽になってしまう、みたいなもの言いをするひとがいたが、そうであってもよいし、そうでなくてもよく、そもそも、全てを排して最高である何か、というようなもののあり方自体が極めて一神教的な発想におもえる。広さの先にも、深さの先にも究極や至高は無く、さらなる広さと深さがあるだけだと思うのは、わたしが極東の多神教と仏教の混合する環境の中に生まれ育ったからなのだろうか。
どんな広さも深さも、それを描くひとのかたちに沿ってうねっていく。芸や美の発想はそのうねりなるものをどう受け止めるかの千差万別を歴史に照らして教えてくれる。その定型化と突き破りの連環自体の型として。松岡はそうした連環を、遠くのもの同士のなかに見出してしまううねりを生きたのだと、わたしはおもう。彼の仕事が、世界観が後世に残らないとしても、それはそれでいいんじゃないか。それは、面白ければいいんだ、みたいなはなしでもなく、その時代の面白い瞬間と、歴史に刻まれた爪痕のどちらが優れているかなどということは、そもそも別のはなしでしかないということなのだから。
少なくとも、深くもなければ、たいして広くもないわたしには出来ない仕事をしたひとだとおもう。

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