新札がでた

今回は小ネタ。
新しいお札、まだ馴染まない。渋沢と北里ががっしり型のせいで何となく被った印象があって、もう少し違うキャラのやつはおらんかったんか、とおもったりする。そうおもうと、諭吉-一葉-英世の並びはキャラがバラけていてよかった。
わたしの子どものころは、まだ聖徳太子黄金時代で、伊藤博文と岩倉具視がふんぞりかえっていた。使うひとはほとんどいなかったが、ごくたまに板垣退助の百円札をみかけることがあった。そのなかでも、伊藤博文の千円札は全体的にカラフルな作りになっていていまだに強い印象が残っている。それに対して岩倉具視の五百円札はぼんやり紺色っぽい地味な感じがした。
そしてなんといっても最重要キャラは聖徳太子だ。なにが重要かといえば、写真ベースではないひとの肖像のリアル変換版としては現時点でこれが最後になっていることだろう。そういうお札は昔はたくさんあった。子どもの頃、一番最初に手にした古札は二宮尊徳の一円札だったが、どこかにいそうな絶妙なおっさん感が好きだった。元ネタはどこにあるのかと二宮尊徳像を調べても、出てくるのは結構いかつめな肖像画だったりで、それらを諸々考慮しつつリアル系に落とし込むのは大変だったとおもう。
戦前のお札はそういう想像上の肖像画が多かった。神功皇后なんかは、お前はどこの京マチ子やねん、という感じでとてもたのしい。今の二千円札はすみっこに紫式部が描かれているが、できればリアル形式でやってもらって、吹き出し状の枠に源氏物語絵巻を出してくれたらよかったのだが、さすがにそこまで面白構図にはできないか。兎にも角にも、今のお札の肖像画は冒険しにくくなっている気がする。武内宿禰なんか、ああこんな感じのじいさんな気がする、くらいのいい感じの出来だ。
写真以前の人物を使えないと、どうしても範囲が狭まるし、結局近代のなかでどういう立ち位置だったかで選択されるしかなくなる。今回のおっさん二人は首が太い組だから、細めのやつに変えることを想像したら、例えば芥川龍之介なんかは文化的な功績は大きいけれども亡くなり方のことがあるから除外されるだろう。太宰もそうだ。あと軍人は選ばれない。特定の政治思想や、キリスト教を除く宗教に深く肩入れしていると微妙だ。と、いう風にかなり選択の幅は狭くなる。
お札はある意味では国民国家の祖霊の在りどころを示すような存在になっている。だから、極めて慎重に戦前的な要素を排する選択をせざるを得ないのが実情なのだろう。しかし同時に選択肢を写真以降に絞れば、必然的に戦前にしか対象はいなくなって、それはどうやっても解消できない矛盾がある。しかし、今のような減点方式で選んでしまうと、たとえ近代以前に範囲をひろげても、どんなかたちでもケチのつけようはある。そうなるとこの先は動物とか風景とか、建築とか工芸、美術作品のような「モノ」になっていくのかもしれないが、それでいいとはおもえない。
お札は、大切なものであるのと同時に、結局は経済のしくみのなかの象徴であって、そこに国ぶりというか、色んな意味をのせこみすぎるのはよくない気がする。そういう意味では、今以上に経済的なものに深く関わった人物を選ぶほうがいい気がする。いや、金にまつわることを真剣に考え、生きたひとというほうがいいか。そういう意味では渋沢栄一は間違っていない。上杉鷹山とかだと優等生すぎるかもしれないが、ならば田沼意次はどうか。日野富子もいる。そう考えると、あの時点でお札の顔に高橋是清を選んだことは、背景にどんな意図があったとしても相当な度胸があったのだとおもう。例えば今の時代、石橋湛山くらいでも選ぶのは難しいだろう。
兎角、金にまつわることに関わる人物は「深い」と見做されにくい。経済や金融はまだしも、経営や家計なんかは軽く見られてしまう。しかし、お札はまさにその場所を行き交うもので、そのことの重さに人生をかけたひとを選ぶのが真っ当だとおもったりするのだが、どうだろうか。

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