見出し画像

緩衝材の弊害

今日も精神科の先生に診療を受けてきた。ここ一年半くらいずっとお世話になっている。「君はまじめだから仕事に関しては心配してないけど、自分のことを大切にね。」と言われた。
そう、この一年半この先生に寄り添ってもらったから自分というモノの形が少し認識できたのだ。自分がどういう形をしているのか知るためには、外界のモノに触れて相対的に知覚することが寛容だと、本当につい最近まで私は気が付かなかったのだ。しかし、プライバシーといった概念で事前に保険をかけている現代では自分の形を知覚できるほどの接触機会が乏しい。目隠ししてなにかモノに触るのだけれど、そのモノに緩衝材が巻かれていて形がよくわからない。このモノが自分であり、他人なのだ。
ヒトからは自分がどのような苦しみを抱えているかは見えない。それは悪意があるわけでもなく、ただ知覚することができないのだと繰り返し繰り返し自分に言い聞かせた。想像できてもそれはあくまでも想像しているヒト自身だったら…という場合で、本当に理解することなどできない。
それは逆もまた然りで、私はこれほど苦しんだのだから人の苦しみがわかるだろうと思いたいけれど、きっとそうでもないのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?