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お世話したい中毒について

今日もおつかれさまです。

特に努力しなくても進んでいくものは時間だ。
あと内臓の動きとか季節の変化とか。

そういったものに対比するように私は能動的になにか生産をしたいと思う欲求がある。例えば畑仕事をしているときに思う。この野菜たちに何も手を加えず放置したらどうなるんだろう。野菜たちには私という人間のエゴに付き合ってもらっている。畑の中に種を撒かれ、物理法則に従って代謝を回し、たまに加えられる天候や人の手入れの影響を受けながらも、花を咲かせ結実し、遺伝子を残す。

それを見ていて考える。人は全く手を加えずに放置したらどうなるのだろう。昆虫、魚、爬虫類などと違ってわれわれの幼体が自然界の中に放置されたらまずいきてはいけないだろう。だから大人は子供に手を加えたいと思い、手入れされることを前提にして人の赤ん坊は生まれてくる。すなわちおせっかいとも取れるその行為はヒトという種の存続に不可欠なのだ。

ヒトがおせっかいを焼きたいと本能的に思う生物ならば、その対象を用意することで本能的な欲求を満たすことができるとも言える。例えばそれは私にとっての野菜たち。例えばそれは医者にとっての患者。例えばそれは先生にとっての生徒。畑にいる時私はついつい野菜にお世話してやっているという感覚になるが、本当は野菜に私のお世話したいという欲求を満たしてもらっているにすぎないのでは無いだろうか。

留意したいこととして、お世話したい欲求には中毒性がある。例えば仕事。介護や仕事が重なってうつを発症した時、私は自分の疲労に全く気がついていなかった。今でも疲れや空腹という感覚がよくわからないまま仕事をするときが多々ある。仕事や介護の内容について「誰かのためになっている」という感覚はモチベーションをたもつために有効である。しかし過信するとその感覚に依存する、その感覚に自分の存在理由を求める。中毒ってこんな感じなんだろうなと思う。

中毒になるって本能に逆らえなくてなるのだとっていたが、案外そんなものでもないのかもしれない。何かの逃避としてその行動が現れていたとするならば、むしろ頭をフル回転させて途中の演算式を忘れてしまっただけの理性的な行動なのかもしれない。お風呂入って、食べて、寝て。もう少しシンプルになりたいと思った日曜の午後でした。

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