能の大成者である世阿弥が書き遺した秘伝書「風姿花伝」の中にある有名な一節。 「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」 様々な角度から解釈可能な言葉ではあるが、基本的には、秘めるからこそ花になり得る、秘めなければ価値は損なわれる、といった概念を伝えている。 庭の創造においてもまさにこの考え方は極めて大切で、要点をこれ見よがしに露出させるのではなく隠すことで花が生まれる。 小流の庭の作庭時、水の出ずる所にちょうど使えそうな、注ぎ口のついた臼石が既存の庭にあり、それを使っ
今でこそあまり見られなくなったが、庭師といったら藍染の法被に藍染の手拭い、藍染の手甲をつけ藍染の地下足袋をはいた、全身藍色のイメージが昔ながらの職人の装いとしてあった。 その装いの理由は、藍染の抗菌や消臭効果といった意味だけではない。 庭師は庭という舞台において草木や石が主役なのに対し裏方を務める黒子(くろこ)なのだという意識からきていたということだそう。 装いからその意識を持っていたのなら、その考え方は仕事の仕方にも影響していたであろうことは想像に易い。 自らの技や
庭というものは、自然との対峙なので図面上では設計仕切れない。 現場での必然性に導かれる時、良い庭が生まれる。 そして、設計の前段階として色んな制限や制約をまず理解しなければならない。 そこに気づかず、或いは無視して作られた庭はどこか居心地の悪さを醸し出す。 建築的条件、環境と風土、排水、借景、クライアントの嗜好、要望、用途。 答えは一つでは無いにしろ、制約が増えれば増える程、正解は絞られてくるもの。 図面の上だけでレイアウトを考えたデザイン、手練手管で自分の得意とす
植木屋の感性、剪定の理論、突き詰めると大きく2つに分けられると思われる。 木を従わせようとしているのか、木に従っているのか。 形良く丁寧に剪定された樹木には目を奪われる。 しかし、個人的には目を奪わない木こそ真に美しいと感じている。 野山で見る木々に、その種の感嘆は抱かない。そこに感じるのは、自ずから然るに成っている美しさ。心地よさ。自然なものというのは基本的には周りの空気に溶け込み「我を見よ」と主張などはしていない。 どれだけ綺麗に剪定したとしても、作者の我が透けると
古くから庭の照明といえば石灯籠が用いられてきた。 日本においては仏教の伝来と同時に伝えられ、奈良の當麻寺に最古のものがある。 灯籠といえば頭に据えられた笠が光を反射し、足元を照らす道標となる役割がある。 庭の照明の基本は道筋を照らすという事に本分があると言える。 よく木の幹元からシンボルツリーを照らし上げる照明を見かける。 華やかな演出ではあるが、下からのライトアップはまるでスポットライトの趣で、木が自分のことを芸能人か何かかと勘違いしかねないので 、灯りは基本上から、